喜び

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放蕩息子の譬え

放蕩息子の譬えは主イエスが講述した諸々の譬えの中で最も感動的な話といっても過言ではありません。放蕩息子はどんな人でしようか?ご存じの通り、放蕩息子は家を離れてから、窮困、貧乏で乱れた日々を過ごしていました。無情な世界で放蕩していたのは、彼が家を離れ、自分を愛する父から離れたからです。遠く離れた地で、彼は財産を使い果たし、富みを享受することで己を楽しませていました。やがて、放蕩息子は豚を飼うことで生計を維持することになり、人生のどん底に突き落とされてしまいました。

時折、私たちもこの放蕩息子のように、ひたむきに事業の成功から人生の喜びを見出そうとします。さもなければ、酒、ドラッグ或いは軽々しい恋愛に酔いしれることで生活の労苦を振り解こうとします。しかしこのようなことでは真の喜びを見出せないどころか、かえって失望に陥るばかりです。

歓喜な再会

幸いなことに放蕩息子は自分の生地を覚えていました。ある日、彼は本心に立ちかえり、初めて目を開け、自身の境遇を省み、そして「父のところに帰ろう」と決心しました。それから故郷に赴き、ずっと待ってくれていた父の懐の中に帰りました。なんという有難い、そして喜ばしい再会でしょうか。

この物語で注目すべきなのは父を思う息子ではなく、来る日も来る日もずっと息子の帰りを待つ父親です。すなわちこの物語が伝えようとしているのは、私たちが天の父にまみえようと望んでいる気持ちよりも強く、天の父が私たちの帰還を切に願っているという事です。

神は私たちのことを心にかけています

考えてみましょう、神はどのように私たちのことを心にかけているでしょうか。神は私たちのことを心にかけるが故に肉体としてこの世に生まれ、自ら私たちと同じ境遇を体験し、私たちのために苦しみを受け、最後に十字架で死なれました。

「神はその一人子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」 (ヨハ3:16)

神への道を見つけることができれば、それはなんという喜ばしいことでしょうか。聖書にこのようなことが書かれています、「よく聞きなさい。それと同じように、罪人が一人でも悔い改めるなら、神の御使たちの前でよろこびがあるであろう。」その「一人」は私、またあなたなのではないでしょうか。

真の喜びを見つけます

親愛なる友よ、あなたが探し求めているのは純粋で永久な喜びか?それとも移り変わる世界がもたらす束の間の虚しい喜びを望むのか?時間をかけて、主イエスを通してさらに神を知りましょう。主は聖書、すなわち命の言葉を持って、あなたの人生と生活を変えることができます。主イエスは聖霊を与え、それを永遠にあなたと共にいさせ、共に日々の生活を過ごしていきます。やがて、私たちが永遠に生きる天国に集い、その時にやっと完全なる喜びを得ることになります。

「見よ、神の幕屋は人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものがすでに過ぎ去ったからである。」 (黙21:3、4)

あなたも勇気を出せば、必ず神の差し伸べた手を掴んで、神が賜う真の喜びを得ることができます。