祈り
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答:祈りとは信者が神と交わるための導火線であり、また神に親しみ、求める者が恵みにあずかって幸を得る手立てである(詩141:2、ロマ10:12~13)。
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答:人には神を信仰する観念があり、また祈りの天性もある。これはほかの動物とは異なる特徴である。いわゆる「窮地は天に叫び、痛みは母に叫ぶ」の如く、心にある自然な現れである。このような天性は人が最初天の父と密接な関係にあったと証明できる。しかし人は罪によって神との繋がりを絶たれ、神から遠く離れ、忘れるに至った。唯一真の神を認識せず、偶像を神として拝み(黙9:20、ロマ1:23)、偽の神に求める(列王上18:26)。真の神に対し、栄えを帰すことなく、感謝もしない。また神を呼び求めない(詩14:4)。これは実に愚かで反逆的な事である。故に悔い改めて偶像から離れ、真の神に帰さなければならない。神にむかって声をあげれば、神はわたしに聞かれる(詩77:1);神に呼ばわれば、主はわたしを救われる(詩55:16)。
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答:「何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい」(ピリ4:6)。「事ごとに」とは全て神が栄えること、また人に対して益があり、害のないことならば、全て神に祈ることが出来る。
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答:アブラハムはソドムを滅ぼさないように祈った(創18:23);ヤコブは兄の手から救われるように祈った(創32:9);モーセはイスラエル人が神の怒りから免れるように祈った(出33:11,14);ヒゼキヤは神に病気の完治を求めた(列王下20:2);ダビデは子ソロモンのために神が誠の心を与えられるように祈った(歴代上29:19);エリヤは干害のため雨を求めた(ヤコ5:18);主イエスは十字架の上で自分を殺す人達が父に許されるように祈った(ルカ23:34);使徒たちはエルサレムにおいて聖霊を待つために祈った(使徒1:14)。
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答:主イエスは使徒たちに祈りを教えられた。即ち現代教会に適用する「主の祈り」であり、信者全てが覚えなければならないものである。主が使徒たちに教えられた祈りはこうである:
「天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください。わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください。国と、力と、栄えとは限りなくあなたのものであるからです。アーメン」(マタ6:9~13)。 -
答:主イエスは私達にこのように祈りなさいと教えられたからであり(マタ6:9、ルカ11:2)、信者一人一人に応じた需要が備わっている。各句の意義を以下に分析した:
1.「天にいますわれらの父よ」:神が私達の父である事を認める。これはなんと親しみ深い呼び名であろうか!もし私達が神の子たる身分を授けられなければ(エペ1:5)、神を父と呼べるであろうか?もし神が私達に恵みを与えられなければ、神の子となれるであろうか(ヨハ1:12)?もし御子の霊が私達の心に入らなければ、神をアバと呼ぶ資格があるであろうか(ガラ4:5~6)。故に真に再生された人だけが神の子となれる(ヨハ1:13、Ⅰヨハ3:1)。「あなたがたは、人をそれぞれのしわざに応じて、公平にさばくかたを、父と呼んでいるからには、地上に宿っている間を、おそれの心をもって過ごすべきである」(Ⅰペテ1:17)。神が父である以上、彼を敬わなければならない。父は天におられるから、より美しい私達の故郷も天にある(ヘブ11:16)。故に私達は自分がこの世の旅人であり寄留者である事を認め(Ⅰペテ2:11)、また天の家に帰って父に会える熱意を持ち、救い主イエスの再臨を待ち望み、私達を天の家に迎えてくださる事を慕い望む(ヨハ14:2~3)。正に主イエス曰く:「わたしは、わたしの父またあなたがたの父であって、わたしの神またあなたがたの神であられるかたのみもとへ上って行く」(ヨハ20:17)。
2.「御名があがめられますように」:主の御名は聖にして、おそれおおい(詩111:9)、しかし多くの人は神の御名をあがめず、汚している(エゼ36:20~21)。その原因は二つある:一つはサタンの画策した神の敵対者であり、彼らは神の御名と教会、即ち天に住む者たちを汚している(黙13:6、ヤコ2:7)。もう一つは信者の行いが悪いために神を信じない人が神の御名を汚している(Ⅰテモ6:1、箴30:9)。故にこの句の祈りの言葉は、神を信じない人が神に帰し、神の御名をあがめるだけでなく(黙15:4)、信者自身が善を行って人に神の御名をあがめさせる事でもある。これは私達が祈りの中において求める願いでもある。
3.「御国が来ますように」:神の国は天国とも称され、主イエスが伝道の時、初めに「天国は近い」と言われた。これは主が世において伝道される中心的なメッセージである。主の復活後、四十日間使徒たちに「神の国」について論じられた(使徒1:3)。クリスチャンの最大の目標は永遠の神の国に入る事である(Ⅱペテ1:11、Ⅱテモ4:18)。この国はこの世に属さず(ヨハ18:36)、神の御旨と力によって統治された天に属する国である。私達は朝夕神の国の完全なる実現について祈り求めなければならない。また神の国は聖霊の統治権を指す(マタ12:28)。主曰く:「神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」(ルカ17:21)、即ち聖霊が人の心に臨んだ時、「わたしの国籍は天国にある」となる(ピリ3:20)。
4.「みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」:神の御旨は天において何ものにも阻まれることなく成される。なぜなら力ある使いが御言葉に従って神の喜ばれる事を成就するからである(詩103:20~21)。しかし地において、またはサタンの妨げによって(ダニ11:13、Ⅰテサ2:18)、或いは信者の愚かさによって(エペ5:17)、例えば神がヨナをニネベの町に派遣したにもかかわらず、彼はタルシシへと逃げ(ヨナ1:2~3)、神の御旨を妨げて誤らせた。しかし神は意のままに万事を行い、神の約束されたご計画は不変である(ヘブ6:17)。神の手を押さえる者はいない(ダニ4:35)。わたしたちは神の御旨を行いとおさなければならない(ヘブ10:36)。主イエスが世に来られたのも神の御旨を行うために来られたのである(ヘブ10:7,9)。故に神の御旨によって救われる人として召された私たちは(Ⅱテモ1:9)、神の御旨をわきまえ(ロマ12:2)、深く知り(コロ1:9)、行い(マタ7:21、ヨハ4:34)、成就しなければならない(使徒21:14)。祈りの中において主の御旨を守り、行えるよう決心しなければならない(ヨハ7:17)。
5.「わたしたちの日ごとの食物を、今日もお与えください」:食物は命に必要な物であるから、これを求めるのは合理的な祈りである。父なる神と私達の関係は、日々必要な食物を神が与えられるほどに密接である。私達を満ち足らせてくださるのは神の恵みである(使徒14:17、Ⅰテモ4:4~5)。食物だけでなく、生活において必要なすべての物を天の父は初めから知っておられた(マタ6:8,32)。人は何も持たずにこの世に来た、「世界とその中に満ちるものは全て神のものだからである」(詩50:12)。私達は神からの物である事を知り、感謝してこれを頂く。どのようにして全ての必要な物を神から賜ることができるのか?それには:
(1)「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう」(マタ6:33)。
(2)「貧しい人々に分け与えるようになるために、自分の手で正当な働きをしなさい」(エペ4:28)。
(3)「自分の仕事に身をいれ、手ずから働きなさい。そうすれば、外部の人々に対して品位を保ち、まただれの世話にもならずに、生活できるであろう」(Ⅰテサ4:11~12)。
(4)「ただ衣食があれば、それで足れりとすべきである」(Ⅰテモ6:8、箴30:8~9)。
(5)「与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう」(ルカ6:38)。
(6)「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」(マタ4:4)。6.「私達の負債をおゆるしください」:負債は罪であり、私達は神に無数の罪の負債を負っている。神は恵みによって私たちをゆるされ(マタ18:27)、仲保者である主イエスの死をもって返済された(ヘブ9:15)。ではなぜまだ神に私達の負債をゆるすように求めるのか?罪の負債には二種類ある:一つは不義を行う事、一つは善を行わない事(福音を伝える事も含む)であり、いかなる人も神に対して、この二種類の負債を負っている。主イエスの尊い血は私達の罪を清め、全ての不義をゆるされた(Ⅰヨハ1:7,9)。これは消極的な面で「不義から離れる」事である。しかし積極的な面では、多くの善を行って初めて完全にととのえられた神に属する者となることができる(Ⅱテモ3:17)。聖書曰く:「人が、なすべき善を知りながら行わなければ、それは彼にとって罪である」(ヤコ4:17)。故に私達は「不義から離れる」をもって自己満足せずに、神が準備した善を行ってこそ本分を尽くしたと言えるのである(エペ2:10、テト2:14)。善を知りながら行わない、行えるのに行わない、話すだけで行わない、これらは全て負債を負っていることになる。例えば十分の一献金(マタ23:23、マラ3:8)も行わないなら、十分に私達の負債となる。それを、へりくだって「私達の負債をおゆるしください」と父に求める。しかしこれは神にゆるしを求めることを通して「努めて善を行う」という責任から逃れるためではない(ヘブ10:24)。故に「私達の負債をおゆるしください」と神に求める意義は自分を励ますことである。「主のみこころにかなった生活をして真に主を喜ばせ、あらゆる良いわざを行って実を結ぶ」(コロ1:10)。
7.「わたしたちに負債のある者をゆるしましたように」:この句と上の句は連なっている。主イエスは使徒達に互いにゆるしあうように教えられ、この句を祈りの言葉の中に入れて励ましとされた。私達は互いをゆるさなければならない(マコ11:25~26、マタ5:23~24)。なぜなら神は既に私達をゆるされたのだから、私達も兄弟をゆるすべきだからである(マタ18:35)。教会の中にもし「互いに寛容になる」修養と「互いにゆるす」精神がなければ、兄弟間に起こる「いざこざ」と「恨み」の問題を解決することは出来ない(コロ3:13)。ただ愛をもって、無条件に互いを寛容になり、理解し、ゆるし、また「互いに罪を認め」、「互いに助祷する」(ヤコ5:16)。なぜなら愛は多くの罪を覆い(Ⅰペテ4:8)、大きいことを小さくし、小さいことを無にする事が出来るからである。それによってキリストの中において心を合わせて、一つになって、相和して、また平安と喜びを保つことが出来る。
8.「わたしたちを試みにあわせないで」:これは私達を悪の誘惑にあわせず、守ってくださるようにと神に求める事である。なぜなら「試み」は悪が人を罪に引き入れる手段であるからである(ヤコ1:14)。もしこれにあわなければ、誘惑される危険から免れる。主イエスが世におられた時、多くの試みにあわれたが、罪を犯さなかった(ヘブ4:15)。サタンの有名な試みが三つあったが、全て主は聖書の言葉をもってそれに打ち勝った。それは:
(1)神の御言に頼り、選択する余地のない誘惑に打ち勝つ。
(2)神を試みないで、おごり高ぶる挙動に打ち勝つ。
(3)ひたすら神に仕えることによって、世の栄華や名利の貪りに打ち勝つ。
サタンが今日クリスチャンを試みる時も同じ手段を使う。それに打ち勝つには、やはり主にならい聖書の言葉を運用する事である。主が聖書の言葉を引用してサタンに打ち勝った策が三つある:「神を信じて頼る」、「神をおそれ敬う」、「神に仕える」である。クリスチャンがこの三つの策を使いこなせば、主のように悪魔の全ての試みに勝つ事が出来る。私達は神に、わたしたちを試みにあわせないでと求めるが、もしあってしまったら、主に頼ってそれに勝つ。主は私達の弱さを思いやってくださる。試みにあう時には必ずそれに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである(Ⅰコリ10:13)。「主は、信心深い者を試錬の中から救い出される」(Ⅱペテ2:9)、故に「試錬を耐え忍ぶ人は、さいわいである」(ヤコ1:12)。9.「悪しきものからお救いください」:これは世界の災いから救ってくださるように神に求める事である。例えばパウロが福音を伝えている時に迫害されたとき;パウロ曰く:「わたしは、ししの口から救い出されたのである。 主はわたしを、すべての悪のわざから助け出された」(Ⅱテモ4:17~18)。世界は罪によって乱れて、暴虐に満ち(創6:11)、人災天災及び全ての悪は尽きることなく現れる。信者が信心深く日々を過ごしても迫害を免れる事は難しい(Ⅱテモ3:12)。主イエス曰く:「この世はあなたがたを憎むのである」(ヨハ15:19)、また「あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」(ヨハ16:33)。「主は真実なかたであるから、あなたがたを強め、悪しき者から守って下さるであろう」(Ⅱテサ3:3)。
10.「国と、力と、栄えとは限りなくあなたのものであるからです。アーメン」:これは称賛の言葉であり、ダビデの称賛と同じである(歴代上29:10~13)。神の国、力、栄えは永遠であり、私達の国籍は天国にある(ピリ3:20)。将来神と共に王となり(黙21:6、22:5)、神の栄えに入る(ヘブ2:10、ロマ8:30)。このように私達は主と共に永遠にいる(Ⅰテサ4:17)。「アーメン」はヘブル語で、その意味は「誠の心を持って願う」であり、新約のギリシャ文にも「真実」と言う意義が含まれている(黙3:14)。
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答:主が教えた祈りの言葉には啓発作用があり、父なる神に望む事と求める事の原則を指し、その内容と意義を広げて活用すべきである。もし儀式化すると、教会において崇拝上の飾り物になってしまい、主の教えの本意を失いかねない。儀式は祈りに取って代わる事はできない。私達はもともとどのように祈るかを知らなかった。しかし主に教えられ、また聖霊が私達のために祈り求める(ロマ8:26~27)。それによって私達の祈りが更に効用を増し、神に聞き入れてもらえる。
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答:全ての人のために祈る(Ⅰテモ2:1)、自分と家族のために祈る(Ⅱコリ12:8~9、サム下12:16~17)、主の僕のために祈る(エペ6:19~20、Ⅱテサ3:1~2)、兄弟のために互いにに助祷する(ヤコ5:16)、病気を患っている者や悪霊に憑かれた者のために祈る(ヤコ5:14,16、マタ17:21)、患難に遭った伝道者のために祈る(使徒12:5)、全ての聖徒のために祈る(エペ6:18)、罪を犯した者のために祈る(Ⅰヨハ5:16)、王と上に立っているすべての人々のために祈る(Ⅰテモ2:2)、敵対する者のために祈る(マタ5:44)等々。世界におけるクリスチャンの負う祈りの責任は非常に大きい。
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答:信者の祈りの目的は必ず神の栄光をあらわす事であり(ヨハ12:28)、また神の御旨を成就する事にある(ルカ22:42)。全ての事は神に祈り求める事が出来る。しかし神の御栄えと御旨に背いてはならない。神の御旨にあっていなければ、求めても得る事はできない。神の御旨にあわない事は求めても意味が無い。それはもはや「無理な要求」である(ヤコ4:2~3)。聖書の中に神の御旨にあう祈りが数多くある。以下に幾つか例を挙げる:
(一)個人の霊性に関する祈り:
1.収穫の主に願って、その収穫のために働き人を送り出すように祈る(マタ9:38)。
2.神が御言のために門を開いて下さって、わたしたちがキリストの奥義を語れるように祈る(コロ4:3)。
3.口を開くときに語るべき言葉を賜わり、大胆に福音の奥義を明らかに示しうるように祈る(エペ6:19~20)。
4.主の言葉が、早く広まり、また、あがめられるように祈る(Ⅱテサ3:1)。
5.この年のうちにみわざが新たにされるように祈る(ハバ3:2)。
6.み手を伸ばしていやしをなし、しるしと奇跡とを行わせてくださるように祈る(使徒4:30)。
7.信者がみんな聖霊を受けるように祈る(使徒8:14~15)。
(二)、教会の奉仕に関する祈り:
1.父なる神に聖霊を賜るように求める(ルカ11:13、ヨハ4:10、7:38,39)。
2.神の真理を示して下さるように求める(詩86:11、ヨハ14:26、Ⅰコリ2:13)。
3.御霊によって内なる力が強まるように求める(エペ3:16)。
4.神に知恵と悟りの御霊を賜り、神を知りえるように求める(エペ1:8,9、ヤコ1:5)。
5.神の御旨を行い、完全になるように求める(詩143:10、ヘブ13:21、コロ4:4)。
6.愛と信仰を増し加えて豊かにして下さるように求める(Ⅰテサ3:10~12)。
7.聖霊によって祈り、自分を神の愛の中に保つ(ユダ20~21)。 -
答:祈りの初めと終わりには必ず「主イエス・キリストの御名によって」と言わなければならない(ヨハ14:13~14)。なぜなら「イエス」という名は神が賜われたからであり(ヨハ17:11~12)、また神の唯一無二の名である。その名は「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」ととなえられる(イザ9:6)。故に主イエス曰く:「あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである」(ヨハ15:16)。
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答:「ただ、疑わないで、信仰をもって願い求めなさい。疑う人は、風の吹くままに揺れ動く海の波に似ている」(ヤコ1:6)。「あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう」(マコ11:24)。「神に来る者は、神のいますことと、ご自分を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである」(ヘブ11:6)。
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答:「わたしたちが何事でも神の御旨に従って願い求めるなら、神はそれを聞きいれて下さるということである」(Ⅰヨハ5:14~15)。「願い求めるものは、なんでもいただけるのである」(Ⅰヨハ3:23)。もし祈りが聞き入れられなかったら、その中に神の更なる良い御旨がある事を知らなければならない。例えばパウロはサタンによる攻撃から離れたいと三度主に求めたが、聞き入れられなかった;しかし主の御旨は、パウロが高慢にならないためであった(Ⅱコリ12:7~8)。モーセはヨルダン河を渡る事を求めたが、聞き入れられなかった(申3:25~29)。このように「主のみこころが行われますように」と言うだけで良い(使徒21:14)。
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答:祈りがすぐに聞き入れないのは:
(1) 心に不義をいだいているから(詩66:18)、雲に覆われたように、祈が通じず(哀3:44)、薫香のように主の前に陳列する事が出来ない(詩141:2)。その時は必ず反省して、神に悔い改めて(Ⅱコリ7:10~11)祈れば阻まれないであろう。
(2) 主の定めた時期がまだ来ていない(伝3:1)。故に祈りが聞き入れられなかった(黙6:10~11)。
(3) 神は私達が失望せずにつねに祈っているかどうかを試される(ロマ12:12、ルカ18:1)。主曰く:「神は、日夜叫び求める選民のために、正しいさばきをしてくださらずに長い間そのままにしておかれることがあろうか」(ルカ18:7)。故に「つねに祈らなければならない」。 -
答:以下に挙げた人の祈りは必ず聞き入れられない:
1.口先だけで心が無い者(マタ15:8~9)。
2.自分は義人だと思い、人を見下げる者(ルカ18:9~12)。
3.人に冷たく、冷酷な者(マタ18:28~35、イザ1:15)。
4.疑い深く、行いに主張のない者(ヤコ1:16~17)。
5.浪費のためにむなしく求める者(ヨブ35:13、ヤコ4:13)。
6.偽善者(マタ6:16)。
7.罪人(ヨハ9:31)。
8.悪を行う者(Ⅰペテ3:12)。 -
答:
(1) 義とされ、義を行う者(ヤコ5:16、Ⅰヨハ5:17)。
(2) へりくだって悔い改める者(ルカ18:13~14、詩51:17)。
(3) 心の清い者(マタ5:8、Ⅱテモ2:22)。
(4) 主をおそれ、施しをする信心深い者(使徒10:2,31)。
(5) 主の戒めを守る者(ルカ1:6,13)。
(6) 奉仕を志そうと誓いを立てた者(サム上1:10~11)。
(7) 昼夜神の御座において礼拝する奉仕者(黙7:15、8:3~4)。 -
答:祈りは必ず霊、魂、体を一体化させて、聖なる生きたいけにえとして捧げ、外界の事にとらわれることなく、一種の「専任」と見なければならない。いわゆる「もっぱら祈りと御言のご用に当る」(使徒6:4)。主曰く:「霊とまこととを持って神を礼拝すべきである」。これが祈りにあるべき態度である。祈る時、座るか立つか(サム下7:18、マル11:25、エレ18:20)、ひざまずくか(使徒20:36)、うつ伏せになるか(マタ26:39)、手を挙げるか(Ⅰテモ2:18)、目を天にむけるか(ヨハ11:41)、大声で叫ぶか(エゼ11:13、使徒4:24)、涙を流すか(ヘブ5:7)、黙祷するか(サム上1:13)、胸を打つか(ルカ18:13)、喜ぶか(ルカ10:21、ヨブ22:26)、これらは常に霊によって感動し、自然態であって、形式や習慣にとらわれず、また故意にする動作や偽りの態度を取ってはいけない(マタ6:5)。さもなければ悪魔に利用される機会を与えてしまう。
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答:それは断食である。重要かつ困難な事にあった時、祈りに力が感じられなかったら、断食をして父なる神の御前でわが身を苦しめて祈ってよい(詩35:13)。断食は祈りの専心と懇切を増し、また神に対し奉仕の敬虔さを表す(ルカ2:37)。主イエスがバプテスマを受けた後、荒野において四十日間断食し、悪魔の試みに打ち勝ち、世を救うみわざを始められた。逆にエバはむさぼって、食べてはいけない物を食べ、悪魔の策略に陥り、「足を踏み外すと一生悔しい思いをする」のようであった。故に断食は祈りの力を増し加えるだけでなく、情欲の作用を制御する事も出来る。
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答:「わたしは霊で祈ると共に、知性でも祈ろう」(Ⅰコリ14:14~15)。これは祈りに使われる二種類の言語である。霊の祈りとは異言の祈りであり、知性は実を結ばないが、霊の中において人には聞き取れない様々な奥義を話し(Ⅰコリ14:12)、「自分の徳を高める」ことである。もう一つは知性の祈りである。すなわち自分と他人が理解する言葉でもって神に求め、感謝する。必要なものや胸の内を神に語り、くどくどと祈る必要は無い(マタ6:7)。しかし讃美の言葉は多くても構わない。例えば「ハレルヤ」は神を讃美するという意味である。黙示録19章1節~6節に、天の大群衆が大声で四度「ハレルヤ」と唱えたと書かれている。その声はまるで多くの水の音のように聞こえた。天の地位に属する真の教会では、この「ハレルヤ」の大きな声でもって、耳に轟く雷の様に、悪魔を戦慄させる。
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答:厳粛な態度でもって、適切な時間と場所を選ばなければならない。「隠れた」場所は心に静けさのない人が必要とする。いわゆる「あなたがたは、穏やかにして信頼しているならば力を得る」(イザ30:15)如く、静けさの中において神のみ顔を尋ねることができる(詩27:8)。故に主イエスは世において常に荒野に退いて祈られた(ルカ5:16)。環境の静けさは大事であるが、しかし外の混乱を拒絶し、心の門を閉じれば、何時でも内在的な隠れた場所を作ることができる。個人が順調で満足に神と深い霊的な交わりをするには、辺ぴな場所を選ぶのが良い。そうすれば人に邪魔される事なく、また邪魔になることもない。最低限、一日に朝、昼、晩の三回の定時的な祈りを守るべきである(ダニ6:10、詩55:17)。この他にも、いつでもどこでも黙祷する。何分でもどれだけでも良い。車に乗っている時、船に乗っている時、道を歩いている時、仕事をしている時でも、「絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈る」(エペ6:18)事が出来る。体とは動く神の宮であり、聖霊がいつでもどこでも私達のために祈る。祈りはクリスチャンが悪魔に抵抗する防御戦線である。主イエスがゲツセマネで三度祈られ、そこで三本の防御戦線を張り、悪魔はそれを突破する事が出来ずに、敗れ去った。私達は神から賜った武具を身につけて悪魔と戦うだけでなく、更に防御戦線を堅く守らなければならない。それは絶えず目を覚まして祈ることである。それによって完全なる勝利を得る事ができる。