真の神
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答:神は存在している。神は「真実な方」であり(Ⅰヨハ5:20、ロマ3:4)、神には「本質の姿」と「真の姿」(ヘブ1:3、Ⅰヨハ3:2)とがあって、また「ご自分の姿」(創1:27)があり、だから、神はパーソナリティのある存在者であり、活ける真の神である(エレ10:10、Ⅰテサ1:9)。
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答:神には始まりも終わりもなく、有って有るもの(出エジ3:14)として、昔から現在、そして永遠に至る神である(黙1:8、4:8)。神には永遠に変わることがなく(ヘブ1:12、13:8)、朽ちることのない唯一の不死を保つ神である(Ⅰテモ6:16~17)。だから、「とこしえの父」(イザ9:6)、「永遠なる神」(申33:27、ヘブ10:31)、「とこしえからとこしえまでの神」(詩90:2)とも称される。
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答:一人しかいない。「上は天、下は地において、主こそ神にいまし、ほかに神はいない」(申4:39、6:4)、「ただひとりの主」(マル12:29)である。
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答:「神は霊である」(ヨハ4:24)、だから、すべてのものの上にあり、すべてのものの内に満ちている(エペ1:23)。しかし、神は万物と一体になったのではなく、独立した方である(使徒17:24、ロマ11:35~36)、汎神論が唱えているような「万物は神であり、神は万物である」というあやふやなものではない。神は唯一で(イザ40:18、25)、多神論が唱えている「宇宙には神は一人だけではない」という荒唐無稽なものでもない。
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答:「神は近づきがたい光の中に住み、人間の中でだれも見た者がなく、見ることもできないかたである」(Ⅰテモ6:16、ヨブ9:11、23:3,8~9、出エジ33:20、ヨハ1:18、ヘブ11:27)、その場所を聖書は「上なる天」と呼び(ヘブ9:24)、「第三の天」とも呼ばれる(Ⅱコリ12:2)。イザヤ書では神が星の上に座する(イザ14:13)と言い、天使は神が「いと高きところに座する」(ルカ2:14)と言った。総括すると、神は「天に座しておられる」(詩123:1、マタ6:9)。しかし、神は霊であり、物質的な物を越え、至る所(詩139:7~8)、「天地に満ちた」(エレ23:23~24)神である。即ち、神には空間と時間の制限はない。
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答:神は見えないが、神が存在することが分かる。聖書はこう教える:「ご自分のことをあかししないでおられたわけではない」(使徒14:17)。神は証を通して、人々にその存在を知らせ、証を持ってその存在を決定されるから、空想、推測されたものではない。
聖書には神がすべての人々に命と息と万物とを与えた(使徒17:25)と証言し、こ
れは神が我々一人一人の身の上にあらわされた証である。科学者は物質の元素を発見したが、命のない元素から命を生み出すことはできない。命の由来という大きな問題に関して、神が賜うほかに科学者では永遠に他の答えを見つけることはできない。だから、世界に「命」が存在すること自体が神の存在の証である。この証拠は各人の上にあらわされ、一番有力なるものではないか。このほか、次の各種の証拠を通して、神のいることが分かる。
1.万物の由来:「神の見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁明の余地がない」(ロマ1:20)。我々は天地万物の創造から客観的に神のいることを「認める」。でなければ、宇宙の万物はどこから来るのか。物には始まりがあって、終わりがある。では、その源はどこから来るのか。それは神である。
最近、一般的に有名な科学者たちも世界創造の問題を研究している。そして、証拠有る答えとしてあげられたのは、宇宙の中に一つ共同する出発点があり、始めに多くの星はこの同一の出発点から爆発した。科学者の中では、これを宇宙の種であり、この種は計り知れない「エネルギー」から出来ていると言っている。この「エネルギー」の固まりはどこから来るのか?どこに保存され、いつから存在するのか?科学者たちはこの問題をまだ解決できないでいる。この問題は存在しながら、論じることの出来ないものとなっている。
しかし、聖書は直接はっきりと我々にこう教えた:「わたしは主である。わたしはよろずの物を造り、ただわたしだけが天をのべ、地をひらき、――だれがわたしと共にいたか――」(イザ44:24)、「わたしは北の天に空間を張り、地を何もない所に掛けられる。」(ヨブ26:7)。科学者はいわゆる宇宙の種とエネルギーがどこから生まれたかは知らないが、我々は神が創造された物だと信じている。だから聖書はこう言われる:「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたものであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである」(ヘブ11:3)、「もろもろの天は主のみことばによって造られ、天の万軍は主の口の息によって造られた」(詩33:6)。
2.宇宙の秩序:秩序にはそれを保たせるものが存在する。電車が軌道上で時間を誤ってぶつかることなく正しく運行できるのはその秩序を維持する人がいるためである。天にある千万の星や銀河が各自の軌道に乗って乱れることなく自転、公転するには必ず一つの引力によって維持されている。地上の農作物、気候、昼夜、季節、雨露、動植物の生存、繁殖は各種類に従って、規律がある。この規律はどこから来るのか?電車が軌道上で時刻表通りに運行するには人の管理は必要なく、自然に秩序を守っているのだと言えるだろうか。明らかに、宇宙の中には万物を主宰し、その秩序を維持させ、その力ある言葉を持って万物を保って(ヘブ1:3)、万物を保有するかたがおられることを知る(ネヘ9:6、Ⅱペテ3:7)。
3.善良の源:湾曲があれば直線がある、暗闇があれば光がある、悪があれば善がある。
世界に罪悪がある以上、それに対抗する善がある。この善の出発点は神である。「よいかたはただ神ひとりだけである」(マタ19:17)。神は善悪を判断する心を人類に賜い(ロマ2:14~16)、世の人々が良心に従って道徳観念と神を信じる特性を持ち、宇宙の中に善なる真の神が存在することを感じさせる。だから、聖書はこう言われる:「神について知りうる事がらは、彼らには明らかであり、神がそれを彼らに明らかにされたのである」(ロマ1:19)、神が人の心に明かされたのは「道徳観念」と「良知特性」であり、これは人類と獣との相違するところである。
4.奇跡の証明:人にはできないことも神は何でもできる。神は世界を創造された奇跡のほか、度々自然を越える奇跡を行われた。聖書に明確な記載があるばかりでなく、今なお神の教会において、奇跡が起き、神を証明し(使徒2:22)、人々に神を知らせた(列王上18:38~39)。
5.御子の誕生:神は肉において現れた(Ⅰテモ3:16)、即ち人として世に誕生されたイエスである。これは空前絶後の一大事であり、西暦はこのことの真実性を表した。聖書で言われる「言葉が肉となり」、「言葉は神である」ことは神が肉体を持ってこの世に来られ、この世界は彼によって造られたことを表す。イエスがこの世に来られたのは失われたものを尋ね出して救うためであり(ルカ19:10)、真理を世の人々に告げ、見たこと聞いたことを証することによって、真の神を証明し(ヨハ4:22~23)、人が見たことのない神をあらわす(ヨハ1:18)。だから、イエスは言われた:「わたしを見た者は、わたしの父を見たのである」。
6.聖書の記載:この世界が創造されて以来、神の御旨と御業は聖書において不滅の記録を残し、神の過去と将来になされる事、その預言のすべてが成就されることを指示した。この聖書に神の証があり、記載されたことは歴代を通して、人と神とが接触した確かな経験と真理の啓示である。聖書は神の霊感を受けて書かれたものであるから、聖書を知れば、神の偉大なる力を知る(マル12:24)。
7.聖霊の能力:聖霊は神から出たものであり(ヨハ15:26)、イエスが肉体として世に誕生された後、継続的にこの世に遣わされたのである。聖霊は目に見えないが、上から来た力である(ルカ24:49)、聖霊が人の上に降ったとき、特殊な感覚があり、人の心に入ったとき、奇妙な感動を覚える。この超自然的な霊感と霊の力は多くの信者が体験したことのあるものである、わたしたちにこの聖霊を賜う神が存在することを証明できる(Ⅰテサ4:8)。
8.教会の証:「教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない」(エペ1:23)。教会は神に召され、新たに生まれ変わった団体であり、神と直接連合し、神の造られた万物の中で、教会は初穂である(雅1:18)。だから、神のすべての御旨、知恵、能力、栄光、真理、恵みは教会を通してあらわされる(エペ3:9~10)。満ちみちている神の豊かさはキリストの中にある。教会はキリストのからだであるから、キリストにあって神の豊かさを得られる(コロ2:9~10)。教会の信者は神を信じる私たちにあらわされた御力がいかに大きなものかを感じ取るべきである(エペ1:19)。だから、神は言われる:「あなたがたはわが証人、わたしが選んだわがしもべである。それゆえ、あなたがたは知って、わたしを信じ、わたしが主であることを悟ることができる。わたしより前に造られた神はなく、わたしより後にもない」(イザ43:10)。これは教会が神のいることを証明したものである。
9.善悪の報い:神は聖書の中で言われた:「報いを携えてきて、それぞれのしわざに応じて報いよう」(黙22:12)。報いは偶然的なものでなく、必然的な因果関係がある。善悪には遅かれ、早かれ必ず報いがある。これを司る者は誰か?世には善を賞し、悪を罰する権力を与えられた人がいる、これは義なる神によって立てられたものである(ロマ13:1~2)。神が自ら執行される善悪の報いは世の末の大審判であり、もっと厳密で徹底したものである。だから、聖書はこう言われる:「まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる」(ガラ6:7)。この因果応報は神の存在を証明できるものではないか?
10.悪魔の反証:世界に悪霊が存在することは多くの人に認められた事実であり、否定しても事実に勝てない。聖書には悪霊にとりつかれて理性を失い、誰も押さえることができない例もある(マル5:2)。悪霊にとりつかれた体は病気ではないので、医薬で治すこともできない。しかし、これら悪霊にとりつかれた人がイエスを見た時、「いと高き神の子イエスよ…どうぞ、わたしを苦しめないでください」と叫んだ。イエスは一言でこの悪霊を追い出し、人に平安を与えられた。これは聖書に限る例ではなく、今日も各地で悪霊にとりつかれて治せなかった者が、教会を通してイエスの御名によって悪霊を追い出し、癒された例もたくさんある。これによって、悪霊が存在する反面、いと高き神も存在することを証明できる。
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答:神は自ら証をあらわし、求める人に見いだせるようにされた(使徒17:27)。しかし、人類は宇宙の中で非常にむなしいものであり(イザ40:15、17)、神は偉大なるかただから、神をすべて知ることはできない(ヨブ36:26、11:7)。今明かされていることも限られている(Ⅰコリ13:12)、人は自分の知恵によって、神を知ることはできない。ただ神の啓示によって、神がご自分のためにあらわされた証を通して、熱心に主を知り(ホセ6:3)、主を認め(エペ1:17)、主を深く知るように(コロ1:9)追い求めるのみである。
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答:「ああ深いかな、神の知恵と知識との富は」(ロマ11:33)。神には知らないものはない(ヘブ4:13)、人の心の秘密をも知っておられる(詩44:21、ヨハ2:24~25、Ⅰコリ4:5、エゼ11:5);「彼は不義を見ると、これに心をとめられぬであろうか」(ヨブ11:11);人の舌の言葉もすべて知っておられる(詩139:4);万物は神の目には裸であり、あらわにされている(ヘブ4:13)。
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答:神にはできないものはなく、「神にはなんでもできない事はない」(マタ19:26)。神には難しい事はない(創18:14、エレ32:17)、だから「全能者」(黙11:17、ヨブ37:23)、「全能の神」(創17:1)と呼ばれる。「神」は原文では「有能者」の意味もある。
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答:主の主権は永遠なるものである(ダニ4:34)。天においても地においても、いっさいの権威は神に属し(マタ28:18)、神によらない権威はない(ロマ13:1、ヨハ19:10~11)。
△神の権威は次に挙げられる:
1.万物と万民を支配する権威(詩103:19、ヨハ17:2)。
2.万民と天使を審判する権威(ヨハ5:27、黙11:18、Ⅱペテ2:4)。
3.災いと福とに報いる権威(イザ45:7、エレ32:19、ルカ12:5、Ⅱテサ1:8~9、ロマ 2:6~10)。
4.罪を定め、罪を赦す権威(ヨハ3:18、8:11、マル2:10、マタ12:37)。
5.生死を決める権威(サム上2:6、雅4:15、ルカ12:20、ヨブ27:8、34:14~15)。
6.被造物の存廃を決める権威(ロマ8:20、9:20~23、ネヘ9:6、ヘブ1:3、Ⅱペテ3:7、10)。
7.季節や時期を決める権威(伝3:1、使徒1:7)。
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答:神の性質は完全である(マタ5:48)。この性質はイエス・キリストの身を通して、人々に見せた。また聖書においてその神性を宣告し、わたしたちをその性質にあずかるようにされた(Ⅱペテ1:4)。神の性質は次に挙げられる:
1.神は聖潔な方である(Ⅰペテ1:15、レビ19:2)。
2.神は光の方である(Ⅰヨハ1:5、イザ2:5)。
3.神は慈愛の方である(Ⅰヨハ4:8、エレ31:3)。
4.神は慈悲の方である(詩145:9、Ⅱコリ1:3)。
5.神は真実な方である(Ⅰコリ1:9、詩36:5)。
6.神は義の方である(Ⅰヨハ2:29、ヨブ35:2)。
7.神は平和な方である(コリⅡ13:11、イザ9:6)
8.神は寛容な方である(ネヘ9:30、Ⅱペテ3:9)。
9.神は哀れみの方である(ロマ9:15、ヨエ2:13)。
10.神は忌みの方である(申4:24、ヘブ12:29)。
11.神は罪を憎む方である(箴6:16~19、ヘブ1:9)。
12.神は威厳の方である(詩93:1、ロマ11:22、イザ26:10)。
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答:神は一人しかいない。すなわち聖なる父、聖なる子、聖霊が一体となった神である。
三者の働きは時期の違いによって区別がある:聖なる父は創造の御力をあらわし(創1:1)、聖なる子は救いの御恵みをあらわし(ロマ3:24)、聖霊は啓示の働きをあらわす(ヨハ16:13)。しかし、これは一つのものからでて、一つのものに帰する(ヨハ10:30)。神は唯一の神であり、イエスが誕生される時、聖書は彼をこう預言した、「大能の神、とこしえの父」(イザ9:6)。ヘブル人への手紙第1 章8 節に:「神の子について、『神よ!』」、ペテロ第二の手紙第1 章1 節に:「私たちの神と救い主イエス・キリスト…」、使徒行伝第5 章3~5 節には聖霊を欺くことは神を欺くことであると説いた。
主イエスは自分のことを「天から下ってきた者、また天に上った者」と言われた(ヨ
ハ3:13)。私たちはこの神性の奥義について、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。私たちの知るところは、今は一部分にすぎない。しかしその時には、私たちが完全に知られているように、完全に知るであろう(Ⅰコリ13:12)。
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答:神は宇宙とその万物の主宰者である(使徒17:24);「地と、それに満ちるもの、世界と、そのなかに住む者とは主のものである」(詩24:1)。また人類の父でもあり(マラ2:10、マタ23:9)、すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのものの内にいる(エペ4:6)。万物は、神からいで、神によって成り、神に帰するのである。栄光がとこしえに神にあるように、アーメン(ロマ11:36)。
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答:神は世の人を愛し、「永遠の愛」をもって世の人を引き寄せる(ヨハ3:16、エレ31:3)。世の人は神に背き、神を離れ、己の滅びの道を走っても、神は一人の人も滅びないよう、慈悲の心をもって世の人々に悔い改めと救いの機会を与えられた。イエス・キリストが説かれた放蕩息子が帰ってきたたとえ話は天の父がいかなる慈愛を持って私たちに対処されたことが分かる(ルカ15:20、Ⅰヨハ3:1)。「わたしは服従せずに反抗する民に、終日わたしの手をさし伸べていた」(ロマ10:21)。私たちは神のもとに帰るべきではないか?
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答:神の御旨によって私たちがその子になることを定められた(エペ1:5、ヨハ1:12 ~13);私たちに賜る約束は永遠の命である(Ⅰヨハ2:25)。この永遠の命は永遠の昔に約束されたものであり(テト1:2)、私たちは永遠の命を望むことによって、御国を継ぐ者となり(テト3:7)、キリストと共に(ロマ8:17)天にたくわえる永遠の資産を受け継ぐ者としてくださった(Ⅰペテ1:3~4)。