教会
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答:教会とは神に選ばれて救われた人々で結成した神に属する団体である(使徒 2:47)。 エペソ人への手紙第四章第4節から第6節までの聖句の中では、七つの「一」があり、すなわち教会結成の基本的な質と合一の基礎を説明している:
1.「神は一つ」とは、私たちの父のことであり、私たちは皆、「神の子」である(ガラ 3:26、ロマ 8:14)。
2.「主は一つ」とは、イエス・キリストのことであり、信仰によって、義とされる(イザ45:25 、使徒13:39)。
3.「霊は一つ」とは、真理の聖霊のことであり、私たちは皆、一つの聖霊からバプテスマを受けた(Ⅰコリ12:13)。
4.「信仰は一つ」とは、一つの信仰のことであり、皆語ることを一つにする(Ⅰコリ1:10)。
5.「バプテスマは一つ」とは、一つのバプテスマのことであり、皆キリストに帰したのである(ガラ3:27~28)。
6.「望みは一つ」とは、神は唯一の希望であることであり、我々は皆、救主なる生ける神に、望みを置いてきたのである(Ⅰテモ4:10)。
7.「からだは一つ」とは、一つの教会をあらわしているのであり、我々は皆、キリストによってしっかりと組み合わされ結び合わされていくのである(エペ4:16)。 -
答:教会の始まりは使徒行伝第二章第41節から47節までに記載されている。主イエスが「わたしはわたしの教会を建てよう」と言われたときは、まだ教会が設立されていなかった(マタ16:18)。ここでは、将来のことを指している。五旬節がきてから、弟子たちが聖霊とバプテスマを受けた後、教会が建てられた。
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答:主イエスは「わたしはわたしの教会を建てよう」と言われたので、主ご自身が教会を建てられたことが分かる。「わたしたちは神の作品であって、イエス・キリストにあって造られたのである」(エペ2:10)。誰でも建てることや創立することができるわけではない。だから、真の教会には創立者がなく、ただ先に恵みを受けた者たちがいる。例えば、エルサレムに住んでいて先に恵みを受けた百二十名の人々である(使徒 1:15)。
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答:主イエスが「わたしの教会」と言われたのは、教会が主イエスに属することを十分に説明している。だから、誰でも教会を自分の財産として支配してはならない。教会では、イエス・キリストをかしらとするべきである(コロ1:18)。なお、教会はイエスが自らの血であがない取られたものであり(使徒20:28)、父なる神に育てられていくものなので(ヨハ15:1、Ⅱコリ5:5)、「神の教会」、「神の家」とも呼ばれる(Ⅰコリ10:32、Ⅰテモ3:15)。イエス・キリストは教会のかしらであり、すべての真の信者たちはこのかしらに結ばれた肢体であり(エペ4:15)、皆、キリストによって、しっかりと組み合わされ結び合わされていくのである(Ⅰコリ12:12)。
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答:ない。キリストは自ら神の家を治められる(ヘブ3:6)。彼はどこにでもおられ、そして、彼の御霊を遣わし、教会に奉仕の仕事を示して、導かれるのである(使徒11:28~29、16:6~7)。聖書には、「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである」(ピリ2:13)、「全身はすべての節々の助けにより、しっかりと組み合わされ結び合わされ、それぞれの部分は分に応じて働き、からだを成長させ、愛のうちに育てられていくのである」(エペ4:16)と書いてある。これは神が教会を建て、また治めることの法則である。主イエスは明らかに、「異邦人の支配者と見られている人々は、その民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない」(マル10:42~43)と言われた。ここで示されたように、主が自ら治められるのである。だから、教会では、絶対に誰かが高い地位をもって、支配する必要はない。世の中と同じく官僚封建的な行動をとることを、主は許されない。
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答:聖書で、「教会の柱」と呼ばれている人がいる(ガラ2:9)、即ち、教会の主な責任者である。例えば、「選ばれたのは、バルサバというユダとシラスとであったが、いずれも重んじられていた人たちであった」(使徒15:22)。いわゆる「重んじられていた人たち」とは、兄弟たちの間で比較的才能と恵みがあり、教会の執事を背負い、また信者たちから頼られて推選された者である(Ⅱコリ8:18~19)。しかし、彼の地位は他の兄弟たちを超えるわけではない。主は「あなたがたは兄弟である」と言われたのであるから、地位はみな同じである。だから、ゆだねられた者は、群れの模範となるべきであり、信者の信仰を支配する者ではなく(Ⅰペテ5:3、Ⅱコリ1:24)、勝手に権力をふるってはならない(Ⅲヨハ9~10)。「みんなのかしらになりたがっているデオテレペス」(参考Ⅲヨハ9)が使徒に指摘されたとあるようである。
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答:はじめ、エルサレムにいる使徒たちや長老たちが、教会の規定と信者の手引きについて協議することになった(使徒15:6)。そして、各地の人々に取り決めた事項を守るようにと、諸教会に事項を渡した(使徒16:4)。教会の規定と手引きによって、全ての教会が統一された。少人数で構成されたこの組織は、福音伝道と諸教会の扶助のために設置したものである。このような組織はその性質において、教会そのものではなく、もちろん高級教会などとも言えない。それは教会から生じて、会衆からの要望で作られた総事務所(例えば、エルサレムにあるもの)、また支部のような事務所(例えばアンテオケにあるもの、使徒14:26)にしかすぎない。もし、多数の会衆や教会が、この組織を信じられなくなり、頼まなくなったなら、組織の存在自体の意味を失う。なぜなら、すべては教会のものであるからである (Ⅰコリ3:21-22)。
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答:ピリピ人への手紙の第一章1節に、教会の主な成員が示されていて:(1)聖徒たち 、(2)監督たち(すなわち長老)、(3)執事たちとある。長老と執事は聖徒たちの中から選ばれる。もし聖徒たちによる基礎がなければ、一間の教会にはならない。よって、教会では「聖徒たち」(多数の信徒を指す)に決定権がある。例えば、信徒会議や信徒代表大会は、議論、判決、選挙、免職などの権力がある(マタ18:17~18、Ⅰコリ5:12~13)。教会は民主制であるべきで(Ⅰコリ3:21~23)、個人が導くのではなく、集団がリーダーであり、全ての事は会議と討論によって決定されて行われる(使徒15:6)。
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答:
1.神の霊の家:信徒たちは霊の家を築き上げる生ける石である(Ⅰペテ2:5、Ⅰコリ3:4)。
2.神の羊の群れ:信徒たちは一人の羊飼いに属する(ヨハ10:16、ゼパ2:6)。
3.神の畑:信徒たちは畑の良い種である(Ⅰコリ3:9、マタ13:38)。
4.まことのぶどうの木:信徒たちはぶどうの木の枝である(ヨハ15:1、エレ2:21)。
5.キリストの体:信徒たちはキリストの体の肢体である(エペ1:23、Ⅰコリ12:27)。
6.神の花嫁:信徒たちは花嫁の細胞である(Ⅱコリ11:2、黙21:9)。
7.神の宮:信徒たちは尊い祭司である(Ⅰコリ3:16、エペ2:20~21)。
8.神の箱舟:信徒たちは救われる家族である(ヘブ11:7、Ⅰペテ3:20)。
9.神の国:信徒たちは神の国に属す民である(Ⅰペテ2:9、黙1:6~9)。
10.神の聖都:信徒たちは神の聖都の輝きである(黙21:10)。 -
答:使徒時代の教会は典型的な真の教会である。使徒行伝や各手紙の中に、神は既に滅びない真の教会の様式を残された。しかし聖書には預言がある、「まずは背教のことが起こり、不法のもの、すなわち、滅びの子が現れるに違いない」(Ⅱテサ2:3)。この背教については教会の歴史の中にも出てきた。西暦三百年、教会がローマ国教に変更された後、その性質は強烈に変わり、世の政治に歩み、邪説に傾いていった。聖書を読むことが禁止され、戒めが変わり、偶像に仕え、異端が続出した。例えば、日曜日を守るように変えられ、バプテスマも浸礼から滴礼になった。クリスマス、免罪符の売買、地獄の強調など、これらは教えに背くことばかりである。十六世紀に至って、マルティン・ルターは宗教改革を行い、聖書を翻訳し、真理を広めた。その目的は教会を原始の真の姿に戻すことであったので、「改正教」、「復原教」、また「抗議教」と呼ばれ、ローマ教の背教について抵抗した。宗教改革は歴史上の大事件であり、教会が使徒時代から変質したという事を証明している。改革はされたが、今に至っても完全に原始教会の本質は復元されていない。
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答:使徒時代の真の教会は過去の歴史である。しかし、使徒時代の真の教会と一致する教会を見つけることは可能で、その唯一の方法は聖書に基づいて古の道を訪ねることである(エレ6:16)。使徒時代はすでに終わっているが、聖書の中には使徒時代の教会の原本様式が記載されている。この記載に基づいて探せば、必ず使徒時代の真の教会と一致する教会を見つけることが出来る。聖書は救われるための指南書であり(Ⅱテモ3:15~16)、救いにあずかる真の教会を求める私たちの道標である(イザ8:20)。
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答:
1.使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられ、キリストをかしらとしなければならない(エペ2:10,19、コロ1:18)。
2.使徒が宣べ伝えたのと同じ福音でなければならない(ガラ1:6、Ⅰコリ15:2~3)。
3.使徒たちと同じように「聖霊のバプテスマ」を受けなければならない(使徒10:47、11:17、15:8)。
4.バプテスマは人の罪をゆるし、人が生まれ変わるものでなければならない(使徒2:38、Iペテ3:21、テト3:5)。
5.しるしと奇跡によって、真理と救いが証明されなければならない(マル16:17~18,20、ヘブ2:3~4)。
6.完全な聖霊の賜物が各人の身にあらわれなければならない(Iコリ14:1~11,28)。
7.神の戒めに違反せず、イエスを主とする恵みの安息日を守らなければならない(ヤコ2:8、黙14:12、マル2:27~28)。
8.絶えず使徒たちの教えを守らなければならない(マタ20:29、使徒2:42)。つまり、常にキリストの教えを守る(Ⅱヨハ9~10)。
9.世の中と聖別し、この世にならわず、世俗に染まってはならない(ヨハ17:16~17、Ⅱコリ6:17~18、ロマ12:2)。
10.小羊である花嫁のような聖潔、光明な道徳、聖徒のような義の行いを備えなければならない(黙19:7~8)。
11.神に忠実であり、人を愛する行いをし、世の塩、世の光の役割を果たさなければならない(マタ5:13~14)。
12.聖書の規定に合う教会組織と制度を持たなければならない(Iコリ4:6、ヘブ8:5)。 -
答:名称はある物事の意義と実質を表している、いわゆる「名実ともに」と言うことである。「真イエス教会」と言う名称は一見、人に誤解を招きやすく、高ぶっていて、偏っており、異を唱え、傲慢を好んでいると思われがちだが、これは一般的な偏見に過ぎない。もし一歩進んだ分析と研究を行えばこの名称に含まれている意義を理解し、聖書に合っていると認めるのは難しくない。これから「真イエス教会」という名称を説明する。
1.「真」は神を指す。神は「真実なかた」である。聖書には、「そのあかしを受けいれる者は、神がまことであることを、たしかに認めたのである」(ヨハ3:33)とある。イエスがこの世に来られたことは神の真実を証しする。それ故、イエスはこう言われた、「私は自分から来たのではない。私をつかわされたかたは真実なかたであるが、あなたがたはそのかたを知らない。私はそのかたを知っている。私はそのかたのもとからきた者で、そのかたが私をつかわされたのである」(ヨハ7:28~29)。主イエスが「真」という字で神をあらわしたのは、神が偽りで空しいものではなく、真実の本体をもっておられるからである(Iヨハ3:2)。万物は、神からいで、神によって成り、神に帰する(ロマ11:36)ばかりでなく、神が肉体となってこの世に来られたということは、神が真に存在しておられることを物語っている。聖書には、「真実なかたを知り、真実なかたにおる」(Iヨハ5:20)とある。ヨハネの黙示録三章14節:「アァメンたる(すなわち真実の)者」。また同章7節:「聖なる者、まことなる者」。ローマ人への手紙三章4節:「あらゆる人を偽り者としても、神を真実なものとすべきである」。イザヤ書六十五章15~16節:「地にあっておのれのために祝福を求める者は、真実の神によっておのれの祝福を求める」。ヨハネによる福音書十七章3節:「永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります」。以上は神が真実であることを指摘している。世の中は虚言ばかりで、虚言は悪魔から来るものである。故に、「真」という字は神をあらわす。そして、この「真」の最も具体的なあらわれは、イエス・キリストにある。
2.「真」という字は「イエス」の上にある。イエスが言われた、「わたしをつかわされたかたは真実なかたである」、「わたしはそのかたのもとからきた」。これはイエスと神の関係を物語っている。イエスは神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた(ピリ2:6~8)。だから、「キリストのかしらは神である」(Iコリ11:3)。「キリストは神のものである」(Iコリ3:23)。神に遣わされたものであるから神のみむねを全うされた(ヘブ10:7)。だから「真」という字は、神がすべてにまさり、万物よりも大きく(ヨハ10:29、Iコリ15:28)、すべてのものの上にある(エペ4:6)ということも表す。なぜ真という字だけを使い、神という字を加えないのか?それは、「キリストにこそ、満ちみちているいっさいの神の徳が、かたちをとって宿っておられる」(コロ2:9)からである。ただ、彼のひとり子だけが神の真実を具体的にあらわしている(ヨハ1:18)。なぜならイエスは神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿であるからである(ヘブ1:3)。だから、「真実なかたにおり、御子イエス・キリストにおる」。「御子を否定する者は父を持たず、御子を告白する者は、また父をも持つのである」。「あなたがたも御子と父のうちに、とどまることになる」(Iヨハ2:23~24)。イエスと父とは一つである(ヨハ10:30)。「真の神」は必ずイエスを通してあらわれる。これは、すなわち真の神が肉において現れた偉大な奥義である(Iテモ3:16)。
3.イエスは神と教会との間の仲保者である(Iテモ2:5、Iヨハ2:1)。イエスは上より父なる神の真実の伝統を受け継ぎ、下の教会へと繋がれる。私たち(教会)はイエスによって神と和解し(ロマ5:11)、神はイエスを通して私たちと和解する(コロ1:22)。間におられるイエスとの関係は最も重要である。イエスがおられるからこそ、神が「真」であることを認められる(ヨハ3:33)。「父なる神は、人の子にそれをゆだねられたのである」(ヨハ6:27)。イエスがおられるからこそ、神の「真」を認識できるばかりでなく、「真実なかた」のうちに住むことが出来る。教会はイエスによって神に召されたものであるから(ロマ8:29)、彼によって神の恵みを得ることが出来る。
4.「真」が神を表している以上、「真実なかた」から遣わされたイエスも勿論「真」である。それ故、イエスは言われた、「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」(ヨハ15:1)。イエスの真は神から来たものであり、この世における真の光(Iヨハ2:8、ヨハ1:9)、真理(ヨハ14:17、18:37)、真のパン(ヨハ6:32)、真実の証し(ヨハ8:14)、真のいのち(Ⅰテモ6:19、コロ3:4)である。これらはみな真実の神がこの世にもたらした恵みである。イエスは神の真実をもってこの世の偽りに打ち勝ち、神の真実をもって人生の空しさを埋められたので、わたしたちは、「真実なかたにおり、御子イエス・キリストにおるのである。このかたは真実な神であり、永遠のいのちである」。言い換えれば、イエスの中にとどまってはじめて真実のうちにとどまることになり、永遠の命を得ることが出来る。ヨハネによる福音書三章15節には、「彼を信じる者が、すべて永遠の命を得る」とある。だから真実を認識し、真実に帰する事は、永遠の命を得る方法なのである。
5.主が自ら「まことのぶどうの木」と称したことには重大な意義がある。この役割は偽りのものと区別を付けることである。偽りがこの世に存在している以上、この真実と偽りを見分ける必要がある。だから真と称することを自慢と見なしてはいけない。その中には厳粛な意義がある。旧約時代、すなわち偽の神である偶像が盛んだった頃、神は自らの真実をあらわされた(エレ10:10、イザ65:16)。偽りが続出したユダヤ教時代、イエスはまた自ら真と称し、世の人に選択させた。現在はそれを上回る嘘が横行する時代であり、宗教界にはにせキリストや「もう一人のイエス」が出現した。このときにこそ、神の真実を高く掲げ、人々が真実を認識し、真実に帰すようにする必要が更に高まる。
6.「教会」という二文字の原文の意味は「召された集会」である。つまり、主イエスがこの世から選び出された信徒である(ヨハ15:19)。自らの血によって、神のために、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から人々をあがなわれた(黙5:9)。教会はイエスと密接な関係を持っているため、教会の上にイエスの名を高く掲げなければならない。「教会」と呼ばなければそれまでであるが、もしほんとうに小羊の花嫁になる教会なら、対外的な名称はイエスの名とは切っても切れないのである。なぜなら、わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである。だから、教会はイエスの名を高く掲げるのが非常に重要である。誰かの名前や地名、及びイエスと関係のない名義を掲げるよりずっと正当で合理的である。キリストは名前ではなく、「油を注がれた王」と言う意味である。イエスという名は神より賜わったもので(マタ1:21、ヨハ17:11~12)、異邦人たちの中から御名を負う民を選び出されたのである(使徒15:14)。教会とは、すなわち神の御名によって呼ばれている者である(エレ14:9)。教会は神の御名を覚えさせるところであり(出エジ20:24)、その名を置くところである(申12:5,11)。だから、神も教会により、またキリスト・イエスによって、栄光をお受けになる(エペ3:21)。主は「私の教会」と言われた。「私」というのはイエスの名を指す。また、コリント人への第一の手紙一章2節には、「神の教会」とある。神とは誰か?それは「真実なかた」である。神の名は何か?それこそ「イエス」である。だから「真イエス教会」とは即ち、「神の教会」である。この名称は神とイエスの真実性をあらわしているばかりでなく、教会が神の名に帰する関係性をもあらわしている。
7.最後に、教会を「真」と称する理由である。神とイエスとはみな真実であるのは言うまでもないが、真と自称するのは適切ではないという人がいる。しかし、教会の真実の伝統は神とキリストから来たもので、教会は神に満たされているものである(エペ1:23、3:19)。キリストは教会のかしらであって、神はキリストのかしらである(Iコリ11:3)。かしらが真実であるから、教会も真実なのである。主イエスがまことのぶどうの木である以上、神とつながっている信者は皆まことの枝である。不真実な枝は神にとりのぞかれ、切られ、或いはその枝は外に捨てられ、枯れ落ちてしまう。これはぶどうの木全体の真実性から見れば特に大きな影響はない。
前述を合わせてみると、「真イエス教会」という名称の正確性、重要性が分かる。この名称は一般の人から見ると、「真」という字に反感を持つかもしれないが、この「真」という文字こそ、慕い求める価値があるのである。神から救われ、恵みを得ようとする者は皆、真理を愛し、真理を追求する態度を持つべきである。一、教会の由来
ヨハ3:35、7:28、ロマ3:4、Ⅰヨハ5:20
Iコリ3:33
Iコリ11:3
神
キリスト
個人
真
イエス
教会
二、教会とイエスの名の関係
イザ65:16
ゼカ14:9、使徒4:12
使徒15:14、エレ14:9
神
唯一の名前
御名を負う民を選び出された
真
イエス
教会
三、神と人との間にあるイエスの地位
Ⅰテモ2:5
神
仲保者
人
真
イエス
教会
四、教会が真と呼ばれる理由
ヨハ8:31
真(である)
わたし(の)
弟子
真
イエス
教会
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答:使徒時代のはじめの教会は、真イエス教会である。聖書にはこのような呼び方はないが、「神の教会」という言葉には「真イエス教会」という意味が含まれている。また、主イエスも「わたしの弟子である」と約束された。真の教会は唯一であって、使徒時代からイエスが来られるまで、小羊の唯一の花嫁とは、すなわちこの教会のことである(黙21:2)。このきよいおとめは使徒時代からキリストにささげられ(Ⅱコリ11:2)、すべてイエスを信じる人々、またイエスに「私の弟子である」と呼ばれる人は、皆この花嫁の細胞である。過去キリストにあって眠った聖徒は、今も御霊の人としてこの教会に属し、彼らの肉体はこの世にはないが、キリストにあって眠っており(Ⅰコリ15:18)、今も魂が存在している。だから、使徒時代の「主の弟子」はすでに存在しないと思ってはいけない。彼らは永遠に存在している(へブ12:23)。また、神の言葉を伝えたために殺された人たちの「魂」は(マタ10:28、黙20:4)、「わたしたちの血の報復を」と大声で主に求めることで(黙6:9~10、16:7)、彼らが存在していることが証明できる。彼らは私たちと共に引き上げられる(Ⅰテサ4:17)。よって、霊的な本質から言えば、真イエス教会は現代に創立されたのではない。もしこれは今日新しく創立された教会であると思っているなら、なんの価値があるのか。真イエス教会ははじめの「わたしの弟子である」と呼ばれたグループの延長である。神の体である真の教会は古代から今日まで一つしかない。五旬節の聖霊の時期(前の雨)は創始であり、今日の聖霊の時期(後の雨)は終結である。この後の雨(聖霊)によって、はじめの真イエス教会が新しく末の世に現れている。ホセア書に書かれているように:「わたしたちは知ろう。せつに主を知ることを求めよう。主はあしたの光のように必ず現れいで、冬の雨のように、わたしたちに臨み、春の雨のように地を潤される」(ホセ6:3)。あしたの光は東方に現れる:「神の栄光が、東の方から来たが、その来る響きは、大水の響きのようで、地はその栄光で輝いた」、「主の栄光が、東の方に面した門の道から宮にはいった」(エゼ43:2,4)。これは「いなずまが東から西にひらめき渡る」(マタ24:27)と書いてあるように、真の教会が東で現れることを預言している。東方のユダヤで使徒時代の教会は成立し、また東の中国で真イエス教会が成立した。
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答:「しかし、神のゆるがない土台はすえられていて、それに次の句が証印として、しるされている。『主は自分の者たちを知る』。また『主の名を呼ぶ者は、すべて不義から離れよ』」(Ⅱテモ2:19)。この土台はイエス・キリストである(Ⅰコリ3:11)。イエス・キリストはきのうも、きょうも、いつまでも変わることがない(へブル13:8)。しかし、神の働き人たちは注意してこの土台の上に建てなければならない。その形は神が山で示された型どおりに建てなければならないのである(へブル8:5、エゼ43:11~12)。建築の霊的な材料はその土台と合わせるために金、銀、宝石を用いる。それゆえ、真の教会の伝道者は、第一に自分自身を宣べ伝えるのではなく、ただ主なるキリスト・イエスを宣べ伝え(Ⅱコリ4:5)、専らキリストを主としてあがめ(Ⅰペテ3:15)、人を誇らず、自らを栄えさせず、教会のすべてのことにおいてキリストを第一とする。また、キリストの純粋な真理に根ざす(へブル6:1)。信徒たちをキリストにあって全き者として立つようにし(コロ1:28)、キリストに根ざさせ、キリストにあって建てられるようにする(コロサイ2:7)。このように金、銀、宝石を用いれば永遠に存在する。本質が変わったり消滅するものはすべて、草木のようである。例えば、自分を高くしたり、権力を操ったり、世俗を真似たり、世の人のように振舞ったり、教会の中で派閥を作ったり、または教会の創始者と偽って主イエス以外の偶像を拝んだり、造ったり、これらのものは火の試練を受けるときに必ず焼き滅ぼされる。しかし、それらは真の教会の本質と土台に損害を与えることはできない。神は必ず真の教会の内部を清め、名ばかりのからを焼き捨て(マタ3:12)、さらに完全な聖潔を目指し、栄光ある教会とするのである。
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答:教会は内面(霊的な結びつき)だけではなく、外面からも見えるものである。外から見える教会は集会を通じてあらわされる。いわゆる、「全教会が一緒に集まる時」である(Ⅰコリ14:23)。教会の真の信者として、よく集会に参加する必要があり、聖書にも「集会をやめてはいけない」という教えがある(ヘブ10:25)。
集会の重要な働きは:
(1)神を拝む(Ⅰコリ14:25)。
(2)神をほめ歌う(ヘブ2:12)。
(3)神に祈る(使徒4:31、16:25)。
(4)神の教えを語り、またそれを聞く(使徒20:7~8、Ⅰコリ14:26)。
(5)神が共にいてして下さった数々のことを報告する(使徒14:27)。
(6)主の晩餐にあずかる(Ⅰコリ11:33)。
(7)主の安息日を記念する(使徒13:14、16:13)。
(8)互いに交わる(使徒2:41)。 -
答:教会が負う最大の使命は、全世界の全ての人々に福音を宣べ伝え、救い主たるイエス・キリストを信じて救いを得させることである(マル16:16)。また地上においての執政者、権力者が教会を通じて神の大いなる知恵を知れば、神も教会によって栄光を受けられる(エペ3:21)。ゆえに、教会には教会の奉仕や霊を救う働きを進め、神の御旨を全うする力が与えられている。
聖書において見られる教会の各活動:
1.協議する(使徒15:22)。
2.つかわす(使徒11:22)。
3.見送る(使徒15:3、Ⅰコリ16:6)。
4.迎える(使徒15:4)。
5.証しをする(Ⅲヨハ6)。
6.称賛する(Ⅱコリ8:18)。
7.選ぶ(Ⅱコリ8:19、使徒6:3)。
8.祈る(使徒12:5)。
9.供給する(ピリ4:15~16)。
10.世話をする(Ⅰテモ5:16)。
11.さばく(Ⅰコリ6:1~2)。
12.安否を伺う(ロマ16:16、Ⅰペテ5:13)。 -
答:
1.教会に従う(使徒16:4~5、マタ19:17)。
2.教会に関心をよせる(Ⅱコリ11:28)。
3.教会を力づける(使徒15:41)。
4.教会を治める(Ⅰテモ5:17、3:5)。
5.教会に奉仕する(Ⅱコリ8:23)。
6.教会を愛護する(コロ1:24、Ⅱコリ8:24)。
7.教会を牧する(使徒20:28、Ⅰペテ5:2)。
8.教会の徳を高める(Ⅰコリ14:12)。
9.教会に献金する(Ⅰコリ16:1)。
10.教会のやっかいにならない(Ⅰテモ5:16)。
11.教会に申し出る(マタ18:17)。
12.教会の安否を伺う(コロ4:15)。