しるし


一、しるしとは何か?

答:しるしとは神の御業である。その定義は二通りある。一つは宇宙のすべての自然現象であり、もう一つは誰にもできない超自然的なことである。万能の神は、「すべての事をなすことができ、またいかなるおぼしめしでも、できないことはない」(ヨブ42:2)。神は御旨の欲するままにすべての事をなさるかたである(エペ1:11)。

 

二、宇宙にあるすべての自然現象もしるしなのか?

答:宇宙万物のすべては神の傑作である。いわゆる「自然界」は自然的にできたものではなく、神がそうされたのである(ロマ8:20)。世の人は神を知らないために、宇宙万物の由来も知らない。ゆえに、それを「大自然」、「自然のルール」と称したのである。人類が考えている自然の万物と規律の源をたどるならば、主の手がこれをなされたことを知る(ヨブ12:7~10)。だから、神を信じる私たちにとって、宇宙万物のすべてがしるしである。神の御業のほかに、自然界の由来の正確な答えは見つからないであろう。科学者であるバートン博士は次のように言った、「科学を研究することによって、唯一の神への確信が一層強まってくる。なぜなら、これほど複雑で、しかもおもしろい世界は、乱雑なもので成り立たせるわけにはいかないからである。私は、世界万物が偶然に発生したとは想像できない。現代の物理学にあらわされている世界は一人の知者によって創造されたとしか考えられないのである。」

 

三、しるしが発生する原因は?

答:しるしは神の力のあらわれである。科学も結果には必ず原因があると公認している。まず何かの原因が先に起こってから、それに相応する結果が生まれるものである。もし物事に原因がなければ、科学が擁護する「自然のルール」も破壊されてしまうのである。無数の複雑な原因の中で、その最初あるいは最終点までたどれば、必ず第一の原因がある。それは私たちが信仰する神である。神に「比べうるものはない」(エレ10:7、イザ40:18)、また「等しいものもない」(イザ40:25)。だから、神の力がしるしを起こす原因である。

 

四、神はなぜしるしをあらわされたのか?

答:
1.神の栄光をあらわすため:神は全能者として受けるべき栄光がある。神がしるしを行われたのはご自分の栄光をあらわすためである。「もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空はみ手のわざをしめす」(詩19:1~2)。主イエスが最初のしるしである水を酒に変えられたとき、ご自身の栄光を現された(ヨハ2:11)。使徒が初めてイエスの御名によって足の萎えた人を歩かせたとき、群衆たちもこのしるしのゆえに、神をあがめた(使徒4:21)。主イエスがラザロをよみがえらせた時、マルタにこう言われた:「もし信じるなら神の栄光を見るであろう」(ヨハ11:40)。
2.神の御業をあらわすため:神の御業はその創造された万物を通して、すでに明らかである。小さな虫や草でさえも御手のわざをあらわしている。しかし、世の人は万物を平凡なものと思い、神の御業ではなく、すべては偶然にできたものに過ぎないと思っている。神は世の人に更なる啓示を与えるため、超自然的なしるしや奇跡をもって、ご自分を証明されたのである(使徒2:22)。生まれつき目の見えない人をいやし、そのことを通して神の御業をあらわされたのである(ヨハ9:3)。だから、知識者であるニコデモはイエスの行われたしるしを信じずにはいられず、「神がご一緒でないなら、だれにもできはしません」と思ったのである。また、神に背いた民たちは、神に命じられたエリヤ預言者の行ったしるしを見て、地にひれ伏して、「主が神である、主が神である」と言わざるを得なかったのである(列王上18:39)。
3.神の徳をあらわすため:ペテロは言った、「いのちと信心にかかわるすべてのことは、主イエスの神聖な力によって、わたしたちに与えられている。それは、ご自身の栄光と徳とによって、わたしたちを召されたかたを知る知識によるのである」(Ⅱペテ1:3)。私たちが神を知るに至ったのは、主が自らの栄光と徳によって私たちを召されたからである。神の栄光と徳は「神の権威」によってあらわれ、いのちと信心にかかわるすべてのことも「神の権威」によってわたしたちに与えられている。神は大いなる栄光と徳があり、「神の権威」はこの二つの要素のために行われている。例えば、主イエスが水を酒に変えられた、暴風を叱って静められた、海の上を歩かれた、山の上で変化した、イチジクの木を呪われた、これらは神の栄光をあらわしたものである。また病をいやし、悪霊を追い出し、らい病人を清め、死人を復活させ、目の見えない人を見えるようにされ、五千人を満腹させた、これらは神の徳をあらわしたのである。というのは、イエスがこれらのしるしを行われたのは人を深く憐れみ、それぞれの苦しみを解かれたからである。だから、しるしは人の好奇心と試みを満足させるものではなく(マル8:11~12)、神がしるしを通して、ご自身の徳をあらわし、人々にご自身を唯一の救い主として信頼させるためにあらわされる。

 

五、クリスチャンがイエスの教えを信じれば、イエスの行われたしるしを信じなくても良いのか?

答:今、多くのクリスチャンは聖書に書かれているしるし、例えば、キリストが世で行われたしるしについて、信じても、信じなくてもよいと思っている。彼らが言うには、「イエスがそれらのしるしを行われたかどうかは、私たちにはあまり重要ではない。大事なのは、彼の永久的な教え、例えば、キリストの新しい戒めと山上垂訓などであって、それらのしるしは、かえって信仰の妨げとなるから、放棄してもよい」。この考えは大いに間違っている。クリスチャンが単にキリストの教えを信じて、しるしを信じなければ、このような信仰はなきに等しい。キリストの教えは大事であるが、しるしが伴わなければ、キリストは世の偉人や聖人にしかすぎず、信じるに値しない。一人の偉人あるいは聖人は、私たちの永遠の命への要求を満たすことはできず、また、罪と死の問題も解決できない。偉人や聖人は人間としての模範と幸福を人類に与えることができても、自分自身も含めて、罪の中で失望し、死に飲み込まれていくのである。しかし、キリストは一つの言葉でもって、死んでから四日も経った死人を復活させ、墓の中から出てこさせたのである(ヨハ11:43~44)。これこそキリストが人類の救い主となる最も有力な証拠である。私たちに必要なのは、神が共におられて、しるしを行えるイエスと、しるしが伴って、真理と教訓が証明されることである(マル16:20)。しるしがなければ、私たちは一人の良き師匠を得たに過ぎない。しるしがあることによって、私たちは神性のある救い主を得たのである。私たちの罪と死は人間の良き師匠では解決できず、ただ、神性の救い主だけが私たちを罪の中から救い出し、死から逃れさせてくれるのである。もしキリストを社会改革の良きリーダーとして信仰するならば、しるしを信じなくてもよいであろう。もしキリストが人の罪をあがない、永遠の命を与える救い主、神であると信じるならば、何の疑問もなくしるしの信仰を受けるであろう。

 

六、しるしを信じないクリスチャンの信仰はなぜ本物とは言えないのか?

答:イエスご自身が最大なるしるしである(ルカ11:30)。言が肉体となる、おとめが聖霊によって身ごもり子を産む、死んだ後の復活、昇天、再臨、これらの既成事実及び必ず実行される事実はキリスト教の教義の基礎となっている。もしこれらしるしの事実がなければ、キリスト教はなかったであろうし、また宣べ伝えられるキリストの福音もなかったであろう。しるしを信じないクリスチャンは、人間にできないことは神もできないとし、神を人間と同様視するが、それならば、なぜ神を信じる必要があったのか?もしクリスチャンが、おとめが聖霊によって身ごもり、キリストが誕生し、死んで三日後に復活し、昇天され、再臨される神の力を信じなければ、キリストの神性を根本的に信じていないことになり、キリストと関係を持ったとは言えない。キリストが救い主である証しは、彼の言論と教えだけでなく、その成就された救いの御業が最も大切である。まさにパウロが、「死人からの復活により、御力をもって神の御子と定められた」(ロマ1:4)と言ったように、私たちを信じるように至らせたのは、人の知恵によらないで、神の力によるものである(Ⅰコリ2:5)。だから、本当のクリスチャンであるならば、しるしを信じない人はいないであろう。

 

七、新約時代の教会もしるしを必要とするのか?

答:直に神の栄光、御業と徳をあらわし、「神の権威」によって命と信心にかかわる全てのことを私たちに与えられるのがしるしであるならば、教会にとって、しるしは非常に必要なものである。イエスがまだ世におられた時、イエスは十二弟子を呼び集めて、彼らにすべての悪霊を制し、病気をいやす力と権威とをお授けになった(ルカ9:1~2)。そして、昇天される前に、再び弟子たちに約束して言われた、「信じる者には、このようなしるしが伴う。すなわち、彼らはわたしの名で悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、へびをつかむであろう。また、毒を飲んでも、決して害を受けない。病人に手をおけば、いやされる」(マル16:17~18)。このことから新約時代の教会は主の約束によって、しるしを行う力のあったことが分かる。使徒たちはしるしを行ったばかりでなく、このことのために一緒に祈って言った、「天と地と海と、その中のすべてのものとの造りぬしなる主よ…僕たちに、思い切って大胆に御言葉を語らせて下さい。そしてみ手を伸ばしていやしをなし、聖なる僕イエスの名によって、しるしと奇跡とを行わせて下さい」(使徒4:24,29~30)。

 

八、しるしの働きは何か?

答:聖書によれば、しるしには以下の働きがある:
1.宣べ伝える福音を証しする(マル16:20、使徒14:3)。
2.救いを証しする(ヘブ2:3~4)。
3.キリストと使徒の身分と来歴を証しする(ヨハ3:2、5:36、10:37~38、マタ14:33、Ⅱコリ12:12)。
4.神の栄光、御業と徳をあらわす(ヨハ9:1~3、11:4、マル2:12、使徒10:38)。
5.神の御名をあがめる(エレ32:20、イザ63:12、歴代上17:21、使徒19:17、マル1:27~28)。
6.主を信じるように人を導く(ヨハ4:48、12:11、使徒5:12,14、出エジ4:30~31、使徒9:42、13:12)。
7.人の疑問を解く(マタ11:2~5)。
8.罪のゆるしの証しとなる(マル2:9~12)。
9.人に悪を捨てさせ、正しい道に戻らせる(使徒19:19)。
10.反対者を黙らせる(使徒4:14)。
11.悔い改めない人を裁く(マタ11:20~24)。
12.魔術を失敗に至らせる(出エジ7:12、使徒8:9~13、13:8~11、16:16~18)。

 

九、しるしはすべての人を悔い改めさせることができるのか?

答:しるしは人を悔い改めさせ、主を信じるように導くものである。パウロも言った、「わたしは、異邦人を従順にするために、キリストがわたしを用いて、言葉とわざ、しるしと不思議との力、聖霊の力によって、働かせてくださった」(ロマ15:18~19)。だから、極端に迷信的な多くの異邦人はしるしを見て、主を信じた。真イエス教会の各教会にもこのような証しがある。しかし、心が頑なで、悔い改めない人には、しるしも何の効果がない(ヨハ12:37)。例えば、イエスは町々で多くのしるしを行ったが、人々は悔い改めなかった(マタ11:20)。その心がいかに頑なであるか見ることができ、パリサイ人はなおさらであった。しるしによって悔い改め、恵みに預かることができなければ、将来の裁きの日に、彼らの見たしるしがその人を裁く証拠となるであろう。これはちょうど、主イエスを捨て、その言葉を受け入れなかった人は、終わりの日に彼らの聞いた言葉がその人を裁くのと同じである(ヨハ12:48)。

 

十、にせ預言者、にせキリストもしるしを行えるのか?

答:シモンはサマリヤで行った魔術によって多くの人たちを驚かせ、小さい者から大きい者に至るまで皆、彼について行った。しかし、彼は伝道者ピリピが行ったしるしと奇跡を見て、もっと驚いたのである(使徒8:9~13)。だから、にせ預言者、にせキリストが行うのはしるしではなく、しるしと奇跡に似せたサタンの働きにすぎない(Ⅱテサ2:9)。悪魔は、人を利用して魔術を行い、人を惑わすことはできても、真実の試練に耐えることはできないため、その虚像は暴かれる。モーセがパロの魔術師に勝ち、エリヤがバアルのにせ預言者に勝ち、パウロがエルマを制したことは真偽を見分ける良い例である。

 

十一、なぜ今ある多くの教会にしるしがないのか?

答:教会がしるしを行える二つの原因がある:
(1)神が共におられるからであり、ニコデモは「神がご一緒でないなら、あなたがなさっておられるようなしるしは、だれにもできはしません」と言った。また、ペテロも主のためにこう証しをした、「このイエスは、神が共におられるので、よい働きをしながら、また悪魔に押し付けられている人々をことごとくいやしながら、巡回されました」。もし教会に神が共におられるなら、しるしが全くないということはないだろう。
(2)主が権威を授けられたからであり、主は十二弟子を呼び寄せて、彼らに汚れた霊を追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやす権威を授けられた(マタ10:1)。また七十人の弟子にもそうされた(ルカ10:19)。もし教会の伝道者に神から授けられた権威と聖霊の賜物があるならば、汚れた霊を追い出し、また病気をいやす力が必ずあり、これをもって宣べ伝える福音を証しする。

 

十二、しるしをもって宣べ伝える福音を証しするが、伝道するたびに必ずしるしが伴うのか?

答:教会におけるしるしの働きとは、宣べ伝えている御言が真実で、神の教えが人の知恵と煽動する言葉によるものではなく、聖霊と力の証によるものである(Ⅰコリ3:4~5)。人は言葉で教えを宣べ伝え、神はしるしで御言を証しする。両者の組み合わせによって、教会が宣べ伝えている教えの正確性を証明する。エリヤが子供をよみがえらせたことによって、神は彼の口を通して語らせた言葉の真実を証明された(列王上17:23~24)。教会もそうである、「主は、彼らの手によってしるしと奇跡とを行わせ、そのめぐみの言葉をあかしされた」(使徒14:3)。教会には、ある大いなるしるしによって、多くの人が信じるようになった例がしばしばある。だから、伝道するたびに必ずしもしるしが起こるとは限らない。しるしを行うには相応する信仰の条件が必要であると同時に(使徒14:9~10、マタ13:58)、神の御旨に従うべきである。教会が明らかなしるしによって、信者の信仰を固め、長く影響を与えることは確かなことである。

 

十三、なぜ現在の一般的なキリスト教はしるしを行える教会のことをにせ預言者、にせキリストと呼んでいるのか?しるしを行えない教会は真の預言者、キリストなのか?

答:これは彼らの偏見である。主は言われる、「信じる人にはしるしが伴う」。この約束は使徒時代だけでなく、今の教会にも有効である。しかし、今の多くのキリスト教は、しるしを行うのはイエスと使徒だけで、教会はしるしを行うことなどできない、しるしはあくまでも聖書の物語として伝え、今の教会にしるしがあってはならない、もししるしがあると、それは邪霊、にせ預言者、にせキリストであると考えている。しるしのある教会を見ると、すぐにマタイによる福音書24章24節を根拠に批判し、信者たちに信じてはいけないと教える。ある伝道者は香港で出版されている「真道雑誌」で「真イエス教会に邪術が入り込んだ」と批判した。彼の言った邪術とは、わたしたちの教会がよく祈りで悪霊を追い出したり、病をいやしたりすることを指している。この批判は、イエスが悪霊を追い出すのは、悪霊のかしらベルゼブルによるのだとパリサイ人が言ったのと同じではないか(マタ12:24)?イエスでさえもこのようにそしられたのであるから、現在、しるしを信じない人から「邪術」と呼ばれても驚くことはないであろう。わたしたちは主イエスの御名によって祈り、サタンを追い出し、また、病をいやした。これによって、多くの人が栄光を神に帰し、異邦人を神の御前に導いた。しかし、その伝道者は栄光を神に帰さないばかりでなく、これを「邪術」と呼ばわり、パリサイ人に習い、専ら聖霊を批判する態度はいかに危険なものであろうか(マタ12:32)。当時のパリサイ人でもまだサタンを追い出すことはあった(ルカ11:19)。しかし、現在のキリスト教の信仰と力はパリサイ人にも及ばない程度に堕落してしまったにもかかわらず、全く悔い改めないでいる。自分ができないのに、さらに他人の行ったことをも否定する。このパリサイ人のような性格はあってはならないものである。

 

十四、なぜバプテスマのヨハネはしるしを一つも行わなかったのか?

答:悔い改めの教えを宣べ伝えたバプテスマのヨハネは、主の道を備えるために来たが、しるしを一つも行わなかった(ヨハ10:41)。彼は後に来られるイエスを「わたしよりも力のあるかた」と認め、「わたしはキリストではなく、そのかたよりも先につかわれた者である」と言った。これはヨハネの偉大なる風格と正しい認識である。だから、群衆がイエスのところに行ったのは、御言を聞くだけでなく、彼の行われたしるしのためでもある(ヨハ12:18)。神がヨハネをイエスの開拓者として遣わし、しるしを一つも行わせなかったのには意味がある。もしヨハネもイエスと同じしるしを行い、また二人同時に御言を宣べ伝え、人にバプテスマを施すなら、当時のユダヤ人はとまどったであろう。またイエスは、しるしによって、自分が神からつかわされた者であることを証しできなかったであろう(使徒2:22)。だから、しるしと奇跡はイエスがキリストである証拠なのである。ユダヤ人も、キリストが来られたとき、しるしを行うことができ(ヨハ7:31)、普通の人物ではないことを知っている(ヨハ4:29)。だから、しるしはキリストにとって、必要であり、キリストではないバプテスマのヨハネには必要ない。神はしるしでもってキリストとバプテスマのヨハネを区別し、ヨハネよりも力あるイエスを人々に認識させられたのである。ヨハネは牢屋に投じられ、ある時、彼はイエスについて疑問を持ち、人を使わせてイエスに尋ねた、「きたるべきかたはあなたなのですか。それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか」。イエスはご自分の行われたしるしでもって彼に答え、その疑問を解いたのである(マタ11:2~6)。このことから、しるしを行ったことで、イエスがきたるべきキリストであると証明された。ヨハネがしるしを一つも行わなかったのは、彼はキリストではなく、過渡期の預言者であり、しばらくの間のあかりに過ぎないからである(ヨハ5:35)。新約時代の教会はキリストによって設立された正統派である。主イエスは、昇天される前に弟子たちにはっきりと約束された、「信じる者には、このようなしるしが伴う。すなわち、彼らはわたしの名で悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、…病人に手をおけばいやされる」(マル16:17~18)。また言われた、「わたしを信じる者は、またわたしのしているわざをするであろう。そればかりか、もっと大きいわざをするであろう」(ヨハ14:12)。だから、五旬節に聖霊がくだってから、主は彼らと共に働き、しるしと奇跡をもって、宣べ伝える御言を証しされた(マル16:20)。使徒行伝の最後の章にもしるしと奇跡の記載がある(使徒28:5,8)。この権威と賜物は使徒時代の教会にとどまるものではない。今日、キリスト教と呼ばれていながら、もししるしを一つも行えなかったならば、このような教会にキリストの聖霊の正統性があるかどうか疑問がある。

 

十五、教会がしるしを行うにはどんな条件を備えるべきか?

答:
1.神の霊によるべき(マタ12:28):主イエスと使徒たちが世で病をいやし、悪霊を追い出したのは神の霊によるものであった。神は聖霊を限りなく主イエスに賜ったからである(ヨハ3:34)。「神はナザレのイエスに聖霊と力とを注がれた」ため、悪魔にとりつかれた人をいやすことができた(使徒10:38)。使徒たちは上からの力-聖霊を待ち望んでいたため、しるしが伴い、主のために証しすることができたのである。だから、「しるしを行う」ことと「病をいやす」ことは真の教会が備えるべき聖霊の賜物の一つである(Ⅰコリ12:9)。
2.大いなる信仰を持つべき(マタ17:20):弟子たちがてんかんの悪霊を追い出せなかった時に、イエスは言われた、「あなたがたの信仰が足りないからである」、「もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この山に向かって『ここからあそこに移れ』と言えば、移るであろう。このように、あなたがたにできない事は、何もないであろう」。だから、病をいやし、悪霊を追い出すしるしには、信仰が非常に重要であることが分かる。主が弟子たちに力を与え、その力で悪霊を追い出したこともあったのに、なぜこの時はできなかったのか。それは信仰心の問題である。弟子たちに信仰心がないのではなく、足りなかったため、このような特殊な悪霊と病に対して無力であった。しかも、その悪霊にとりつかれた子の父の信仰はもっと足りなかったのである(マル9:24)。彼は主イエスに言った、「しかしできますれば、わたしどもをあわれんでお助けください」。(マル9:22)。「できますれば」と言ったのは彼の信仰の足りなさのあらわれである。主イエスに対してでさえ、「できますれば」程度の信仰で求めたのであるから、弟子たちの力はもっと軽視していたであろう。この疑いの毒素が信仰の大部分を侵蝕してしまったのである。だから「信仰の足りない者」、「信仰の薄い者」となり、悪霊を追い出せなかったのである。十分な信仰を持ち、神の力をいただくと、病はいやされるのである(マル5:28~29)。パウロが生まれながらに足の萎えた人を歩かせたのも、「彼をじっと見て、いやされるほどの信仰が彼にあるのを認めた」からである(使徒14:9~10)。教会の伝道者は、病をいやしてほしい人の信仰を見極め、適宜の助けを持って、神に力をあらわす機会を残すべきである。もし教会が神に頼って病をいやし、悪霊を追い出す信仰を失ったならば、あるいはある特定の賜物を重視しすぎて、病をいやす賜物を熱心に追い求めなければ、病をいやし、悪霊を追い出す霊の働きはだんだんと消えていくことであろう。
3.切に祈るべき:祈りと信仰は互いに働き、祈りは信仰を強める。聖書は教える、「あなたがたの中に、病んでいる者があるか。その人は、教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリブ油を注いで祈ってもらうがよい。信仰による祈は、病んでいる人を救い、そして、主はその人を立ちあがらせて下さる。かつ、その人が罪を犯していたなら、それもゆるされる」(ヤコ5:14~15)。祈りを持って病気をいやすことは聖書が教会に授ける力であり、信者にとって、あるべき信仰生活でもある。しかし、聖書は祈れば病気が治るとは言わない。信仰による祈りは主にいやされる可能性があると教えている。教会はこのような信仰あるいは賜物を備えるべきである。それによって信者たちに同じ信仰を持たせ、病人のために切に祈るように教える。いわゆる「いやされるようにお互いに祈る」ことは、わたしたちの教会で数多く証しされている。祈りは悪霊を追い出し、病気をいやすのに直接的な効果をあらわす、消してはならない聖霊の働きである。

 

十六、病人のために祈るとき、必ずすぐに癒されるのか?

答:聖書には、「愚かな者にならないで、主の御旨はなんであるかを悟りなさい」(エペ5:17)と教えている。神が私たちの心からの祈りを聞かれ、病をいやすしてくださることを深く信じるほか、神の御旨に従うことも心得なければならない。神は神として、求められる通りになさるほか、求められる通りになさらない時もある。神の思いは人の思いよりも高いため(イザ55:9)、神の思いが人の思いと異なる時、求める通りになさらないかもしれない。例えば、ダビデは息子のために断食して祈ったが、神はその祈りを聞かれず、その子は死んだ(サム下12:16~19)。もし神の御旨が、長く病の煩いを受け、あるいはいやされることなく、彼にとってこの世を離れることがこの世で生きるよりも幸せで、あるいはもっと有益であると定められたとき、人の思いのままに病をいやされることはないであろう。あるいは信者を戒めるため、長い病気を煩わせ、苦しみでもって彼らを打ち、悔い改めさせ、立ち返らせるために、罪を認めるまで病気に煩わせることもある。また、神は信者の徳を高め、もっと深い霊の課題を学ばせる、例えば忍耐、従順、謙虚、思いやり、同情心は、時には病気と苦難から貴重な教訓を得る場合もある。「神は、神を愛する者たちと共に働いて、万事を益となるようにしてくださった」(ロマ8:28)。だから、わたしたちは何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを知っていれば、自分の思うままにならない時に疑ったりすることもないであろうし、イスラエル人のようにつぶやくこともないであろう。祈りは自分の欲することばかりを求めるものではなく、もっと大事なのは、イエスの祈りのように、「わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」と祈ることも知っておかなければならない。パウロはしるしと奇跡を持って多くの病人をいやしたが、自分の同労者のエパフロデトは「ひん死の病気にかかっていた」(ピリ2:25~28)、またテモテに少量の酒で胃の病気をいやすことをすすめた(Ⅰテモ5:23)。トロピモが病気なので、彼をミレトに残した(Ⅱテモ4:20)、また初めてガラテヤ人に福音を伝えた時も、彼自身は病気を患っていた。この病気は、神が、この病気のゆえにパウロを軽んじることはないかガラテヤ人を試錬するものでもあった。結果、ガラテヤ人は神の御使かキリスト・イエスかでもあるように、病気のパウロを迎え入れたのである(ガラ4:13~14)。信仰の薄く、神の御旨を知らない者は、パウロが祈りによって自分と同労者の病気を癒せなかったために、疑いかつ批判するかもしれない。だから、もし病気のために祈る時、病気があれば必ず癒されるという観念は間違っている。パウロが祈りで自分と同労者の病気を癒せなかったことを理由に、彼が祈りによって多くの病人を癒した事実も否定するなら、甚だ愚かな者となってしまう。

 

十七、以上の内容からしるしの結論をどうまとめるべきか?

答:総括すると、しるしは主イエス及び使徒の時代において、大きな働きがあった。神の栄光と力を表す霊の真の教会にとって、しるしも当然大いに必要である。使徒時代と同じように、しるしは教会の神聖を表し、正統を保ち、教えを証明するものである。罪人にとってキリストの十字架の恵みを受けるのは最も必要である。外に対して、しるしは罪人を悔い改めさせ、主を信じるように導く働きがある(ヨハ4:53)。また内に対して、教会の霊の徳を高める働きがある。この賜物は聖霊が伴う教会で大いにあらわされる(Ⅰコリ12:9~10)。「神は教会の中で、人々を立てて、第一に使徒、第二に預言者、第三に教師とし、次に力あるわざを行う者、次にいやしの賜物を持つ者、また補助者、管理者、種々の異言を語る者におかれる」(Ⅰコリ12:28)。神に属す真の教会であれば、神の設立されたものが一つも欠けてはならない。