聖霊
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答:聖霊は神の霊であり、神は霊である(ヨハ4:24)。聖書には「主は霊である」(Ⅱコリ3:17)と書いてあることから、聖霊はパーソナリティのある主であることが分かる。
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答:「助け主」(ヨハ14:16)、神の霊(創1:2、Ⅰコリ3:16)、主の霊(イザ11:2)、
生ける神の霊(Ⅱコリ3:3)、父の霊(マタ10:20)、キリストの霊(ロマ8:9)、イエスの御霊(使16:7)、主の御霊(ルカ4:18)、御子の霊(ガラ4:6)、真理の御霊(ヨハ16:13)、永遠の聖霊(ヘブ9:14)、栄光の霊(Ⅰペテ4:14)、知恵と啓示との霊(エペ1:17)、審判の霊(イザ4:3~4)、聖なる霊(ロマ1:4)、良き御霊(ネヘ9:20)、神の七つの霊(黙1:4)などがあるが、「御霊は一つ」(エペ4:4)である。 -
答:この世界が創造されるときから、神の霊が水の面を覆っていた(創1:2)、「あなたが霊を送られると、彼らは造られる」(詩104:30)。「その息をもって天を晴れわたらせる。」(ヨブ26:13)。「神の霊はわたしを造り、全能者の息はわたしを生かす」(ヨブ33:4)。これは聖霊が万物を造った働きである。人類が罪を犯し、肉に属する者になったため、神の霊が長く人の中にとどまらなくなった(創6:3)。旧約時代において、度々預言者と義人を特別に感動させたり、助けたり、神の御言を語らせたり、奇跡を行わせたり(士15:14、サム上16:13)、人にまだ起きていないこと知らせたりした(ルカ2:20)。イエスがこの世に誕生されたのも聖霊によるものである。聖霊に導かれ、聖霊によって病を癒し、サタンを追い出したり、イエスの身において無限に行っていた(ルカ4:18、ヨハ3:34)。これは聖霊と父と子がともに働いている証である。
主イエスが昇天なさった十日後に聖霊がこの世にくだって働く時期であり、五旬節の日はそのはじまりである(使徒2:1)。 -
答:聖霊は父なる神から出るものであり、天地はその働きによって創造され、教会もその働きによって設立された。五旬節の聖霊は雨のように、大量かつ力強くエルサレムで待っていた信徒たちの上にくだった。これは「聖霊によるバプテスマ」である(使徒1:5)。聖書の中にはよく「雨」をもって聖霊を預表している。雨には秋の雨と春の雨があり(申11:14)、これは農業上の必要に応じたものである(ヤコ5:7、18)。神が天国の作物を耕し、収穫するために雨(聖霊)が必要である。春と秋は雨の多い季節である。五旬節の聖霊は秋の雨(先の雨とも呼ぶ)で、現代の聖霊の降臨は春の雨(後の雨とも呼ぶ)の注ぎである。春の雨が終わると、「夏」がやってくる。主イエスはこのように預言された、「いちじくの木からこの譬えを学びなさい。その枝が柔らかになり、葉が出るようになると、夏の近いことがわかる。そのように、すべてこれらのことを見たならば、人の子が戸口まで近づいていることを知りなさい」(マタ24:32~33)。いちじくの木はイスラエル国である。今イスラエル国はすでに復国し、「枝が柔らかになり、葉が出る」時期にある。これによって主が近づいていることが分かる。今は「春の雨の季節」であり、この後は夏が来る。黙示録11 章6 節において、新約時代の教会で次のことが起こると預言している。即ち使徒時代の後、教会は紀元二百数年後に完全に俗世に流されるローマ教に変質し、その時から聖霊が止まるということである。
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答:これは厳重なる変化であり、神は旧約聖書においてすでにその原因を指摘していた:
1.申命記十一章16~17 節:「あなたがたは心が迷い、離れ去って、他の神々に仕え、
それを拝むことのないよう、慎まなければならない。おそらく主はあなたがたに
むかい怒りを発して、天を閉ざされるであろう。そのため雨は降らず、地は産物
を出さず、あなたがたは主が賜る良い地から、すみやかに滅びうせるであろう」。
2.エレミヤ書五章24~25 節:彼らは「われわれに雨を与え、秋の雨と春の雨を時に
したがって降らせ、われわれのために刈入れの時を定められたわれわれの神、主を恐れよう」とその心のうちに言わないのだ。あなたがたのとがは、これらの事をしりぞけ、あなたがたの罪は、良い物があなたがたに来るのをさまたげた」。同じくエレミヤ書三章2~3 節:「あなたは姦淫の悪事をもってこの地を汚した。それゆえ雨はとどめられ、春の雨は降らなかった」。以上の聖句は古代イスラエル人に語ったものではあるが、新約時代の教会の聖霊が止まった原因を預言したものである。旧約時代イスラエルの王アハブの時代、天が閉ざされ、三年半もの間雨が降らなかったのは、アハブが誘惑され、正しい道から外れて、偽りの神バアルを拝んだことが原因である。彼は今までのイスラエルの王にまさって、神を怒らせることを行った(列王上16:32~33)。この事はアハブの時代に起きたほか、霊的においてローマ教時代にも同じ事が起き、正しい道から外れて、偶像を崇拝していた。いわゆる「雨はとどめられ、後の雨は降らなかった」ことには必然的な原因があった。神は「時に従って、雨を降らせる」予定でいたものの、教会が悪の道に走ったため、聖霊が教会から離れたのも必然的な結果である。
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答:
1.「わたしたちは主を知ろう、せつに主を知ることを求めよう。主はあしたの光のように必ず現れいで、冬の雨のように、わたしたちに臨み、春の雨のよう地を潤される」(ホセ6:3)。すなわち、まず神の真理(あしたの光)を認識し、神の真理に従う。
聖霊は真理であり、神は真理に従う人にのみ聖霊を賜うのである(使徒5:32)。あしたの光(真理)が現れるところに、雨(聖霊)が降るのである。あしたの光を認識することによって雨が得られる。これは今日のクリスチャンが注意を払って追い求めるべき事である。
2.「あなたは春の雨の時に、雨を主に請い求めよ。主はいなずまを造り、大雨を人々 に賜い、野の青草をおのおのに賜る」(ゼカ10:1)。これは神に聖霊を追い求める必要性について言っているのである。エリヤは良い模範を示してくれた、「彼は祈ると、雨が降ってきた」。春の雨の季節であっても、神に雨を求める必要がある。そうすれば、得られるのである(ルカ11:9~10)。「あなたがたは、求めないから得られないのだ」(ヤコ4:2)。3.「すべてわたしの愛している者を、わたしはしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって悔い改めなさい。見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食事を共にし、彼もわたしと食事を共にするであろう。…耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい」(黙3:19~22)。これは「熱心になる」ことと「悔い改める」ことも聖霊を受ける条件であると教えている。熱心でないこと(聖霊に対して冷淡である)や、悔い改めない(自分が何でも持っていると思う高ぶる心)ことに邪魔されると、神を追い求める事もできず、聖霊を戸の外に拒絶してしまうことになる。だから、神は言われる、「わたしの戒めに心をとめよ、見よ、わたしは自分の思いを、あなたがたに告げ、わたしの言葉を、あなたがたに知らせる」(箴1:23)。 -
答:主イエスがまだ栄光を得ていない(まだ復活していない)ため、聖霊がまだ下っていない(ヨハ7:39)。主イエスが言われる、「わたしが去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はこないであろう。もし行けば、それをあなたがたにつかわそう」(ヨハ16:7)。主に遣わされる聖霊はイエスがこの世におられた時の働きを引き継ぐためであり、父がイエスを遣わされて、父のために働くことと同じである(ヨハ9:4)。
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答:イエスのために証をし(ヨハ15:26~27、使徒5:32、ヘブ10:15)、イエスを栄えさせ(ヨハ16:14)、イエスから受けたものを弟子たちに告げ(ヨハ16:15)、弟子たちにイエスの言われた言葉を思い出させ(ヨハ15:26)、イエスの代わりに、弟子たちと共にいる(ヨハ13:20、14:17~18)。
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答:
1.主イエスが世にいた時、人々を悔い改めさせたように(マル1:15)、聖霊も人々を悔い改めさせ(使徒11:18)、人々を自責させる(ヨハ16:8)。
2.主イエスが真理を私たちに告げたように(ヨハ8:45~46)、聖霊も私たちをあらゆる真理に導いてくれる(ヨハ16:13)。
3.主イエスが彼を信じる者に命を与えたように(ヨハ10:10)、聖霊も悔い改めて、主を信じる人に命を賜う(使徒11:18)。それは即ち、「聖霊によって生きる」事である(ガラ5:25)。
4.主イエスが言われる、「わたしは門である。わたしをとおってはいる者は救われる」(ヨハ10:9)。我々も聖霊に頼って入門した(ガラ3:2)。それは「聖霊によらなければ、だれもイエスは主であると言うことができない」(Ⅰコリ12:3)からである。
5.主イエスは信じる者を神の子にならせ、神を父と呼ぶことができた(ヨハ1:12、20:17)。聖霊も人々が神の子になるように導き、父、アバよと呼べるようにしてくれる(ガラ4:6、ロマ8:14,16)。
6.主イエスは神の愛をあらわし(ヨハ3:16、ロマ5:8)、聖霊は神の愛を信徒の心に注いだ(ロマ5:5)。
7.主イエスは天において信徒たちの仲介者をし(Ⅰヨハ2:1)、聖霊は地上において信徒の助け主をしている(ヨハ14:16)(「仲介者」と「助け主」は原文で同じ)。
8.主イエスは天において信徒のために父にとりなしておられる(ヘブ7:25)、聖霊は地上において信徒たちのためにとりなしてくださる(ロマ8:26~27)。
9.イエスはこの世にいた時、弟子を伝道に遣わした(マタ10:5)。聖霊も使徒たちを遣わして御働きにあてる(使徒13:2,4)。
10.主イエスは世の末の日に信徒たちを迎えに現れる(ヨハ14:3)。聖霊は信徒を雲に包んで引き上げらせ、空中で主に会わせられる(Ⅰテサ4:17、使徒8:39)。 -
答:イエスを信じる目的は「キリストに属する」事である。「あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものである」(Ⅰコリ3:23)。「だれでも、キリストについている者だというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれるものは、よく言っておくが、決してその報いからもれることはないであろう」(マル9:41)。故に、「キリストに属する」事はいかに大事であるかが分かるであろう。「もし、キリストの霊を持たない人がいるなら、その人はキリストのものではない」(ロマ8:9)。人が聖霊を受けることはキリストに属する証印を押されたことである(エペ4:30)。これは「主は自分の者たちを知る」証印である(Ⅱテモ2:19)。聖霊を持っていないことはイエスを信じているにもかかわらず、証印が記されていないことであり(使徒8:18~23)、これは愚かなおとめのように灯りがあっても油がないと光を放つことができないのと同じである。主が来られる日には、主は彼らに対して、「あなたがたを知らない」と言われるであろう(マタ25:12)。
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答:
1.信者に再生を得させる:「だれでも、水と霊とから生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれる者は肉であり、霊から生まれる者は霊である」(エゼ37:14、ヨハ3:5~6)。
2.信者に証印を得させる:「彼を信じた結果、約束された聖霊の証印を押されたのである」(エペ1:13)。「あなたがたは、あがないの日のために、聖霊の証印を受けたのである」(エペ4:30)。「神はその保証として御霊をわたしたちに賜ったのである」(Ⅱコリ5:5)。3.信者に解放を得させる:「キリスト・イエスにある命の御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである」(ロマ8:2)。「主の霊のあるところには、自由がある」(Ⅱコリ3:17)。
4.信者に指導を受けさせる:「キリストからいただいた油がすべてのことをあなたがたに教える」(Ⅰヨハ2:27)。「聖霊はすべてのことをあなたがたに教える」(ヨハ14:26)。「霊の人はすべてのことを判断する」(Ⅰコリ2:15)。
5.信者を強くさせる:「御霊により、力を持ってあなたがたの内なる人を強くしてくださる」(エペ3:16)。「キリストの名のためにそしられるなら、あなたがたはさいわいである。その時には、栄光の霊、神の霊が、あなたがたに宿るからである」(Ⅰペテ4:14)。
6.信者に証をさせる:「聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、…わたしの証人となるであろう」(使徒1:8)。それは、「巧みな知恵の言葉によらないで、霊と力との証明によるのである」(Ⅰコリ2:4)。
7.信者に良い実を結ばせる:「御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制である」(ガラ5:22~23)。「御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も…子たる身分を授けられることを待ち望んでいる」(ロマ8:23)。
8.信者をよく祈らせる:「聖霊によって祈る」(ユダ20)。「どんな時でも聖霊によって祈る」(エペ6:18)。「御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなしてくださるからである」(ロマ8:26)。「もしわたしが異言をもって祈るなら、わたしの霊は祈るのである」(Ⅰコリ14:14)。
9.信者に賜物を得させる:「霊の賜物は種々あるが、御霊は同じである…すべてこれらのものは、一つの同じ御霊の働きであって、御霊は思いのままに、それらを各自に分け与えられるのである」(Ⅰコリ12:4~11)。
10.信者に慰めを得させる:「主をおそれ聖霊に励まされて歩む」(使徒9:31)。「聖霊の力によって、あなたがたを、望みにあふれさせてくださる」(ロマ15:13)。
11.信者に聖潔を得させる:「わたしたちの神の霊によって、洗われ、きよめられ、義とされたのである」(Ⅰコリ6:11)。また、「聖霊によってきよめられ、御旨にかなうささげ物とするためである」(ロマ15:16、Ⅰペテ1:2)。
12.信者の体を復活させる:「あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべき体をも、生かしてくださるであろう」(ロマ8:11) -
答:「霊」が原文において「息」或いは「風」である意味を誤解したため、ある人は聖霊とは神の一つの力と息だと思い、これを聖霊の性質だと理解し、聖霊のパーソナリティと神性を見落とした。これは間違いである。聖霊は一つの力と息だけでなく、すべてのものをきわめる知恵があり(Ⅰコリ2:10)、また、自分の思い(ロマ8:27、Ⅰコリ12:11)、愛の心(ロマ15:30)があり、恵みを賜う(ヘブ10:20)、悲しむ(エペ4:30)、訓戒する(ネヘ9:20)、語る(使徒8:29)、禁止する(使徒16:6~7)、遣わす(使徒13:2,4、イザ48:16)、監督者を立てる(使徒20:28)、証をする(Ⅰヨハ5:7)、啓示をする(エペ3:5)ことができる。以上のことから聖霊は完全なる神格、神性、神能があることが分かる。ゆえに、聖霊を犯したり、侮ったりしてはいけない。
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答:聖霊自身は形のないものであり、主イエスははっきりと、「それを見ることができない」と言われた(ヨハ14:17)。この目に見えない御霊をどう人々に認識させ、受け入れさせるのか。感謝な事に、主イエスはわたしたちに聖霊のパーソナリティと力を告げたほか、どう聖霊の力を感得するかも教えてくださった。彼は言われた、「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。霊から生まれる者もみな、それと同じである」(ヨハ3:8)。風は吹くときの音を耳で聞くことができる。聖霊が人の上にくだるとき、感動を与え、「異言」を語らせ(使徒10:44~47)、人はそれを聞くことができる(使徒2:33)。以上のことから、聖霊が人の上にくだったとき、風のように目で見ることはできなくても、感得することができる。しかも、聖霊はわたしたちの上に豊かに注がれているため(テト3:6)、感覚と体験がないことはないであろう。
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答:聖書の中には聖霊の象徴としていくつかの標記を常用しているが、これらの標記は聖霊そのものよりも、我々の身に現れる効用をあらわすものである。例えば:
1.風― 聖霊の働きと更新をあらわす(ヨハ3:8、使徒2:2、エゼ37:9~10)。
2.火― 聖霊の熱心と試練をあらわす(使徒2:3、イザ4:4)。
3.水― 聖霊の生活と豊かさをあらわす(ヨハ7:38~39、4:14)。
4.油― 聖霊の喜びと光をあらわす(ヘブ1:9、マタ25:4)。
5.雨― 聖霊の潤しと義をあらわす(マタ5:45、ゼカ10:1、ホセ6:3、10:12)。
6.鳩― 聖霊の善と平和をあらわす(マタ3:16、10:16、創8:11)。
7.印― 聖霊の真実と堅固をあらわす(エペ1:13、4:30、Ⅱテモ2:19)。
8.質― 聖霊の慰めと信頼をあらわす(エペ1:14、Ⅱコリ1:22、5:5~6)。
9.剣― 聖霊の鋭さと厳しさをあらわす(エペ6:17、創3:24、ヘブ4:12)。
10.光― 聖霊の叱責と戒めをあらわす(エペ1:18、5:13~14)。 -
答:神は聖霊を「神に召された人」に与えると約束されている(使徒2:39)。神に召された人とは福音を聞いてイエスを信じた人である(使徒15:7~8、ガラ3:5)。主イエスが言われる、「この世は聖霊を見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない」。人がもし主イエスを信じないで、真理に従わなければ、聖霊を認識し、受ける可能性はない。
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答:
1.心を打ちあけ、聖霊を迎え入れる(黙3:20、ガラ4:6)。
2.聖霊がくだるのを追い求める(ルカ11:13、使徒1:14)。
3.聖霊の賜物を慕う(Ⅰコリ14:1)。
4.聖霊に満たされる(エペ5:18)。
5.聖霊を心配させない(エペ4:30)。
6.聖霊の感動を消さない(Ⅰテサ5:19)。
7.聖霊によって歩く(ガラ5:16、25)。 -
答:
1.聖霊を拒む:自分の心が頑なになって、イエスを信じないばかりでなく、イエスの証をする伝道者と教会を迫害することは聖霊を拒む罪である(使徒7:57)。
2.聖霊を欺く:イエスを信じた者で、私利私欲によって、教会に偽りの行いを取った者を指す。アナニヤ夫婦はこのために死んだ(使徒5:3)。
3.聖霊を侮る:主を信じ、主の恵みを得、真理を知ったにもかかわらず、故意に罪を犯し、正しい道から離れ、神の子を踏みつけ、自分がきよめられた契約の血を汚れたものとし、御霊の賜物を軽んじることは聖霊を侮ることであり、重い刑罰に価することである(ヘブ10:29)。
4.聖霊を汚す:聖霊の働きと賜物をサタンの仕業と見なしたり(マル3:28~30)、自分が聖霊の働きを知らないために、邪霊或いは邪術と判断したりすることは聖霊を汚すことであり、「永遠の罪」として、決して許されることがない(マタ12:31~32)。 -
答:それは「聖霊によるバプテスマ」のことである。主イエスは昇天される時に、弟子たちに言われた、「エルサレムから離れないで、かねてわたしから聞いていた父の約束を待っているがよい。すなわちヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によってバプテスマを授けられるであろう」(使徒1:4~5、11:15)。この聖霊によるバプテスマは、主イエスが昇天されてから十日後の五旬節の日に降った(使徒2:1~4)。
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答:ヨハネの証し:「水でバプテスマを授けるようにと、私をおつかわしになったそのかたが、わたしに言われた、『ある人の上に、御霊が下ってとどまるのを見たら、その人こそは、御霊によってバプテスマを授けるかたである』」(ヨハ1:33)。神は既に預言されていた、主イエスは聖霊によってバプテスマを授けるかたであり、神の右に上げられ、父から約束の聖霊を受けて、それをわたしたちに注がれたのである(使徒2:33)。
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答:ペテロは、預言者ヨエルの書が成就されたとはっきりと言っている。「神がこう仰せになる。終わりの時には、わたしの霊をすべての人に注ごう。そして、あなたのむすこ娘は預言をし、若者たちは幻を見、老人たちは夢を見るであろう。その時には、わたしの男女の僕たちにもわたしの霊を注ごう。そして彼らも預言をするであろう」(使徒2:17~18)。ペテロはこの一説を引証して、まさにこれが五旬節に聖霊が降ることを指しているのだとし、当時の群衆の聖霊に対する懐疑、嘲笑、誤解とを取り去った。
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答:五旬節に聖霊が降った時、弟子たちは聖霊に満たされ、各々特殊な行動を現し、霊感を受けて舌で異言を語り始めたからである。彼らは互いに驚き怪しみこう言った、「これはいったいどういうわけなのであろう」。しかし、ほかの人たちはあざ笑って「あの人たちは新しい酒で酔っているのだ」と言った(使徒2:12~13)。群衆の疑問に答えるため、ペテロは直ちに、「彼らは新しい酒に酔っているわけではない」と否定したが、同時に、彼らが確かに通常とは異なる状態にあるということをも認めた。使徒2:15のギリシャ語の原文は「この人達はあなたがたが考えているように酔っているのではない」と言っている。すなわち、この人達が異なる言語を話しているのは、酒に酔っているためではなく、聖霊に満たされているためであるということである。パウロはエペソの信者を励ます際に、酒に酔うことと聖霊に満たされることを一緒に取り挙げてこう言った、「酒に酔ってはいけない。それは乱行のもとである。むしろ御霊に満たされなさい」(エペ5:18)。この両者を比較すると、聖霊に満たされることと酒に酔うことは、異なる部分もあれば似通った部分もあることが分かる。酒に酔うことは人に乱行を行わせ、辱めさせ、心身共に害を与える。しかし聖霊に満たされると聖潔で温和になり、たとえ平常とは異なる様子であっても、精神をはっきりとさせ、また喜びと節制のある態度にさせるのである。異邦人は聖霊を受けた状態を酒に酔っていると誤解しがちであるが、これは彼らが聖霊を知らないためである。あるキリスト教の信徒は、はっきりと理解していないがために、聖霊を受けたことを邪霊の働きである、とでたらめなことを言ったり、誹ったりする。しかしそれもそのはずである。というのも彼らは五旬節の「聖霊によるバプテスマ」を受けていないからである。もし聖霊に満たされた経験があるならば、そのような無知なことを言って誹ったり、軽率に罵ったりしないはずである。
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答:ペテロは人々に証をしていた時、立って声をあげて言った、「ユダヤの人たち、ならびにエルサレムに住むすべてのかたがたよ」(使徒2:14)。当時、そこにはユダヤ人だけではなく、十数箇所の地方から来た異邦人も共に彼の教えを聞いていたのである。ペテロは最後にこう言った、「約束の聖霊の賜物はあなたがたと、あなたがたの子らと、遠くの者一同とに、与えられているものである」(使徒2:38~39)。「約束の聖霊」とは、父が約束された「聖霊のバプテスマ」のことである(使徒1:4~5)。この約束は一箇所の地域だけに賜るものではなく、後世及び遠方にまで及び、また各階級の人々にまで及ぶものである。神の真の福音によって召されて主イエスを信じた全ての人は、必ずこの五旬節の時に得た約束の「聖霊のバプテスマ」を受けるのである(ガラ3:14、エペ1:13)。
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答:「すべて神がなさる事は永遠に変ることがなく、これに加えることも、これから取ることもできない」(伝3:14)。「父には、変化とか回転の影とかいうものはない」(ヤコ1:17)。聖霊を受けることは、神の後世及び遠方に対する偉大な約束である。また当然それは使徒時代に限らず、五旬節の時から始まり、真の教えの伝道に伴って異邦にまで及び、更に地の果て及び後世にまで及ぶものである。但し、聖霊によるバプテスマと真の教えは決して離してはならない。教会が伝える教えは神の真の教えに背かず、真の救いの福音であるからこそ、約束の聖霊を受けるのである。さもなければ、聖霊は教えに背く教会に決して注がれることはない(イザ63:10~11、箴1:23)。
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答:五旬節以前は、聖霊が正式に降って働く時代はなかった。主ははっきりとこう言われた「わたしが去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はこないであろう。もし行けば、それをあなたがたにつかわそう」(ヨハ16:7)。「イエスまだ栄光を受けておられなかったので、御霊がまだ下っていなかったのである」(ヨハ7:39)。五旬節以前も聖霊は人を感動させ、かつて少数の人たちの「身の上」に働いていた(ルカ1:35,41、2:25)。但しそれは父が約束され、ご計画された「聖霊のバプテスマ」ではない。主は復活後、弟子たちに息を吹きかけて仰せになった、「聖霊を受けよ」(ヨハ20:22)。これもただ主の約束と祝福だけであり、まだ聖霊を受けてはいなかった。従って、主は昇天する際に弟子たちに、町の中で父が約束したものが下るのを待ちなさいと命じた。そしてまたこう言われた、「あなたがたは間もなく聖霊によってバプテスマを授けられるであろう」(使徒1:5)。
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答:水のバプテスマを受けることは水の中に浸すことであるが、聖霊のバプテスマを受けることは、聖霊の中に浸されることである。なぜなら、主が聖霊を人の身の上に注がれるので、それはあたかも水の中に浸されるようだからである。ゆえに、霊に浸されることも水に浸されることと同様に、誰もが皆経験できる事実である。「聖霊によるバプテスマを受ける」ことについて、聖書の中の定義は次のように記されている。
(1)「父が約束されたものを、あなたがたに贈る」(ルカ24:49)
(2)「聖霊があなたがたにくだる」(使徒1:8)
(3)「聖霊の賜物を受ける」(使徒2:38)
(4)「聖霊が彼らの上にくだった」(使徒11:15、19:6)
(5)「聖霊を受ける」或いは「聖霊を受けた」(使徒8:15,17、11:16)
(6)「約束された聖霊の証印をおされた」(エペ1:13)
(7)「約束された御霊を受ける」(ガラ3:14)
(8)「聖霊は…わたしたちの上に豊かに注がれた」(テト3:6)
つまり「聖霊のバプテスマを受ける」こととは、すなわち「聖霊を受ける」ことなのである。人の「身の上」にくだることを特徴とし、このようにして恵みを表された。しかし、聖霊を受けることは身の上に表れるだけで、心とは無関係だと思ってはならない。同じように水のバプテスマは身体が水の中に浸されるだけであるが、神の御前において完全なる良心を求めており、また「心は義によっていきる」のである。聖霊
のバプテスマを受けるのもこれと同様に、神がその信仰によって彼らの心をきよめられるのである(使徒15:8~9)。 -
答:聖書の記載によれば、ある人達は早くに聖霊を受ける。例えばコルネリオの家にいた時、異邦人たちは初めて教えを聞いたにもかかわらず聖霊を受けて異言を語った(使徒10:45)。しかし時には、主を信じた後すぐには聖霊を受けないこともある。サマリヤ人は主を信じバプテスマを受けていたが、聖霊は彼らの一人にもくだってはいなかった。その後、ペテロとヨハネは彼らのために按手したが、その時に初めて聖霊を受けたのである。パウロはダマスコで感動を受け主を信じ、三日後にアナニヤが彼に按手してはじめて聖霊に満たされた(使徒9:17)。エペソの何人かの弟子たちも、パウロが按手してはじめて聖霊を受けた。これも顕著な証しであり、ここから、主を信じたらすぐに聖霊を受けるというわけではないことが分かる。
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答:間違いである。使徒行伝第二章には五旬節の聖霊がくだったこと、第八章には聖霊を再び求めることが記載されている。ペテロとヨハネはわざわざサマリヤへ行き、「彼らのために祈り、彼らに聖霊を受けさせよ」と言った。これは明らかに聖霊を求める祈りである。今日私たちは、この二人の使徒がサマリヤの信者のために祈って聖霊を求めていたことを、余計なこと、間違った行為であったと言えようか。しかもシモンは「御霊が人々に授けられた」のを見た。五旬節の時に既に授けられていたのに、なぜこの時にまた授けられたのか。そこで神は求めて来る者に聖霊を下さることがわかる(ルカ11:13)。なぜなら、神が聖霊を与えるのは、個人が対象であって、団体が対象ではないからである。シモンは切実に悔い改めをしておらず、また心が正しくなかったため、バプテスマは既に受けていたが、聖霊はまだ受けていなかった。聖霊は信者一人ひとりに賜るものである。サマリヤの信者のだれにも聖霊が下っていなかったことを、使徒たちも知っていた。エペソでは12人の弟子たちが聖霊を受けたが、これも数えることができる。聖霊は一人ひとりが受けるものであるということを知らなくてはならない。決してやたらに聖霊を授けるということはない。従って、エルサレムの屋上の間で120人が聖霊を受けたのは、彼らがサマリヤやコルネリオの家族、及びエペソの信者の代わりに聖霊を受けたのではなく、彼らは再び求めて受けなければならない。五旬節の「聖霊のバプテスマ」は代表ではなく模範である。ゆえに、今日の私たちはやはり主に聖霊を授けて下さるよう求めなければならない。
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答:エペソ人への手紙第一章13節には三つの重要な言葉がある。すなわち、「聞く」、「信じる」、「聖霊の証印をおされる」である。この三つの言葉は独立しており、お互いを混同させてはならない。「聞く」は「信じる」に等しくない。「信じる」は「聖霊の証印をおされる」に等しくない。福音を聞いた人がすぐに主を信じるとは限らない。これは、主を信じる者がすぐに聖霊を受けるとは限らず、ひいてはバプテスマを受けた段階ではまだ聖霊を受けてはいないということを証明している。この事実は使徒行伝の第八章14~17節で明らかに示している。私たちは、主を信じてバプテスマを受けようと決めた信者が、聖霊に感動されて導かれたと認めなければならない。そうでなければ、主を信じバプテスマを受けることはありえないでであろう(Ⅰコリ12:3)。ただし、神の約束の聖霊を受けたなら、これは「聖霊のバプテスマ」を受けたことになるので、また別である。ゆえに、ある人は先に霊のバプテスマを受け、後に水のバプテスマを受ける(使徒10:47~48)。またある人は先に水のバプテスマを受け、後に霊のバプテスマを受ける(使徒8:16~17)。聖書では二者の性質は異なると記載されているため、混同してはならない。エペソ人への手紙第一章13節「彼を信じた結果、約束された聖霊の証印をおされたのである」とは、全て主を信じた人が直ちに「聖霊のバプテスマ」を受けるということではなく、主を信じる人は聖霊の証印を必ず受けるという意味である。必ずしも「直ちに」受けるのではなく、事実、多くの人はバプテスマを受けてから聖霊受けているのである。ゆえに、パウロ自身はエペソにいた頃、弟子たちに「あなたがたは、信仰にはいった時に、聖霊を受けたのか」と尋ねた(使徒19:2)。これはパウロが、主を信じたら直ちに聖霊を受けるわけではないことを十分に証明している。
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答:使徒行伝は聖霊がくだる働きの実録であり、また教会の起こりの歴史でもある。「おしえとあかしに尋ねなければならない。もし、このことばに従って語らなければ、その人には夜明けがない」(新改訳イザ8:20)。神が使徒行伝の中で定めた様式は新約教会の定型であり、不変である。ゆえに、聖霊を受ける事実は使徒行伝に記載されている基準と一致していなければならない。
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答:使徒行伝には聖霊が人にくだった時、感覚があり、証拠があるものであって、ただ単に心理的なものではなく、身体にもある特殊な反応があり、他の人も聞いたり、見たりできると記載されている。ゆえにペテロは力ある言葉でこう証しした、「聖霊をわたしたちに注がれたのである。このことは、あなたがたが現に見聞きしているとおりである」(使徒2:33)。これは人の身の上に事実の現れがあって、つかみどころのない心理作用や幻想ではないことを明らかにしている。当時聖霊を受けたことの最も容易な証拠は、この世に存在する言語ではなく、すなわち異言を語ることであった。異言とは原文では「舌の音」であり、「一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉(=奇妙な舌の音)で語り出した」とある(使徒2:4)。この「奇妙な舌の音」は、聖霊が人にくだり、聖霊の感動によって舌が音を出す。これがすなわち「異言」である。五旬節の時、120人が聖霊に満たされたが、みな全て奇妙な舌の音を出し、声は相当大きかったに違いない。ゆえに、聖書にも、「この物音におおぜいの人たちが集まってきて…驚き怪しんだ」と記載されている(使徒2:6~7)。当時聖霊が人々に聞かせた舌の音は、自分たちの国の言葉にも聞こえさせ、神の大きな働きを語っていた(使徒2:11)。その後コルネリオの家においても異邦人が聖霊を受け、異言(舌の音)を語って神をさんびした(使徒10:45~46)。その後、エペソにいた12人の弟子たちも聖霊を受けて異言を語り、また預言した(使徒19:6)。この異言は、もし聖霊が人の耳を開かなければ、ただの聞いて分からない舌の音だけである。パウロも異言を語り、このことを神に感謝した(Ⅰコリ14:18)。コリント教会も異言を語った(Ⅰコリ14:26~27)。これは聖霊を受けることの証拠であるが、ほかに「見える」という証拠もある(使徒2:33、8:17~18)。それは体の振動である。
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答:聖書は、聖霊が人の身にくだる時、すなわち人が聖霊のバプテスマを受ける時は、このような証拠があることを示している。聖霊が人の身にくだる時は、どんな状況下であっても、無感覚で証拠がないということはない。この証拠は自分の「心理作用」や「感情の衝動」などではない。なぜなら、聖霊を受けることは理論ではなく、体験であり、また、愛、喜び、平和…などの聖霊が結ぶ徳の実がとって代わることでもない。これらでもって聖霊を受けたことにはならない。これらは聖霊を受けた後に、心と行いとに自然に現れるものだからである。聖書にははっきりとこう書かれている:『彼らが異言を語って神をさんびしているのを聞いたからである。そこでペテロが言い出した、「この人たちがわたしたちと同じように聖霊を受けた…」』。ペテロははっきりと、彼らは聖霊を受けたと言った。なぜなら、彼らが異言を語るのを聞いたからである。これは決して彼らに愛、平和、喜び、寛容、忠実があるからではない。聖霊の実は徳であり、異言あるいは預言を語ることは賜物である。聖霊には、身の上に賜物の証がともなうべきである。これは神が彼らに対して証をされた後(使徒15:8)、心の内からしだいに聖霊の実が結ばれていったのである(ガラ5:22)。聖霊の賜物が身の上に注がれることによって、聖霊を受けたと認められる(使徒10:45)。パウロがエペソの信者のために按手すると、「聖霊が彼らにくだり、それから彼らは異言を語ったり、預言をしたりし出した」とあるとおりである。このようにして、はじめて聖霊を受けた証があるのである。だから、聖霊がくだる時は無感覚であると思ったり、外から見える証拠は不要であると思うのは、実際にまだ聖霊のバプテスマを受けていないからそう考えるのである。
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答:霊のバプテスマには極めて重要な働きがある。主は言われた、「聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受ける」(使徒1:8)。五旬節以前、聖霊は正式にはくだっていなかった。その時弟子たちは主に何年も従い、多くの教えを聞き、主の御名によって伝道し悪霊を追い出していたが、彼らは霊的な方面ではなお愚かであり(ルカ24:25)、不信(マル16:13~14)、脆弱(ヨハ20:19)、自己中心的で(マル10:37)、誰が一番大いなる者であるかと争い(マル9:34)、主の言葉を悟れなかった(ヨハ16:12)。またペテロも三度に渡り主を認めなかった。なぜであろうか?それは「聖霊のバプテスマ」が欠けていたからである。しかし、五旬節が過ぎた後、彼らは聖霊を受け、直ちに上より力を得た。そこで新たな力を得、真理が明らかになり、賜物が現われ、証をし、奇跡を行い、全てにおいて不思議な現象がともなっていた。これは霊のバプテスマの力による働きである(ゼカ4:6)。
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答:聖霊のバプテスマを受けることは、つまり聖霊に浸されることであり、身体から内なる心まで全て霊の力が注がれる。この力は上よりくだり、また心の内に入っていく。信者の霊の過程において「現れる」「入る」「宿る」「変わる」という四つのステップがある。
1.身に現れる(Ⅰコリ12:7):聖霊が人にくだる時、各種の賜物が現れるが、これは人が聖霊とはじめて正式に接触する際の証拠となる。力が人の上に注がれ、まるで風、雨、電気のようなものが身の上に起きる。五感において少なからず感覚があり、外からも見ることができる。それは祈る時、異言を語り出したり、あるいはその異言を解いたり、また身体が振動し、霊の歌を歌い、涙を流し、嬉しさで笑い、幻を見、身体が持ち上げられるなどが起きる。これは全て人の身に現れる状況である。
2.心の中に入る(ガラ4:6):これは心の中に対する聖霊の働きであり、人の内側に新たに堅固なる霊を宿らせる(詩51:10)。神は言われた、「私は新しい心をあなたがたに与え、新しい霊をあなたがたの内に授ける」(エゼ36:26)。主イエスは言われた、「その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」「その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。聖霊のバプテスマを受けてから、内なる心も一つの霊的な生ける泉となり、絶えず「わきあがり」「流れ出る」。そして霊的な命をこの世から永遠に至るまで湧き出させる。また霊的な命の実を全て結ばせ、命の道を表す(ピリ2:15~16)。
3.内に宿る(ヨハ14:17):聖霊は人を宮として内に宿り(Ⅰコリ6:19)、霊においては証(保証)となり、印となる。「保証」は人が将来神の嗣業を継ぐ証となる。「印」は神のあがないの日が来るまで、神に属する者が誰であるかを認識するための証である。聖霊は我々の内に宿り、永遠に我々と共におられるのである。
4.主の形に変わる(Ⅱコリ3:18)。「栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである」「聖霊による生まれ変わり」は我々の霊の命を主の姿に変えさせ、新たにさせ造りかえらせる(ロマ12:2)。変化によって形ができる(ガラ4:19)。「真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである」(エペ4:24)。そして、主と結びつき「一体となる」のである(Ⅰコリ6:17)。体の内に「彼は、万物をご自身に従わせうる力の働きによって、わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さる」(ピリ3:21)。「朽ちるものは必ず朽ちないものを着る」。その時「引き上げられ、空中で主に会う」(Ⅰテサ4:17)。
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答:異言を語ることは聖霊を受けた必然的な証拠である。実際、これは証拠のためだけにあるのではなく、他にも人の徳を高める大きな働きも持っている。
1.異言による祈りは自分自身の徳を高める(Ⅰコリ14:4)。「異言を語る者は、人にむかって語るのではなく、神にむかって語るのである。それはだれにもわからない。彼はただ、霊によって奥義を語っているだけである」(Ⅰコリ14:2)。「もしわたしが異言をもって祈るなら、わたしの霊は祈る」「わたしは霊で祈る」(Ⅰコリ14:14~15)。パウロは異言を語ることを禁じなかったばかりでなく、我々に異言を語ることを望んだ(Ⅰコリ14:5)。主イエスも既に彼を信じる者に新しい異言を語ることを約束されていた(マル16:17)。
2.異言による預言は教会の徳を高める(Ⅰコリ14:5)。これには異言を解く人がいてはじめて教会の徳を高めることができる。「もし説く者がいない時には、教会では黙っていて、自分に対しまた神に対して語っているべきである」。「黙っている」は会衆に向かって話さないだけであり、神に対して黙っているわけではない。なぜなら解く者がいないので、教会の徳を高めることはできない。しかし「自分を高める」ことはできる。これは人に対して語る異言ではない。誰も聞いて分からないのは差し支えないことである。それによって異言を語る必要がないことの理由にはならない。
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答:神が教会を設立し、賜ったのであるから、これを重視しない訳にはいかない。もし、賜物の順序でその重さを判断するなら、これは幼稚な考え方である。ヤコブが言った、「愛する兄弟たちよ。思い違いをしてはいけない。あらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物は、上から、光の父から下って来る」(ヤコ1:17)。異言の賜物は、紛れもなく父なる神からくだったものであり、良い物である。順序が最後になったからといって、それを軽んじたり忌み嫌ったりしてはならない。異言の賜物を軽んじれば、聖霊を冒瀆する罪となり、「異言を語る」教会の友人が深く戒めることに反対するのに等しい。
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答:
1.「聖霊の導き」:これはすなわち聖霊の導きによる働きである。例えば人を主の御前に引きよせる(ヨハ6:44)、あらゆる真理に導いてくれる(ヨハ16:13)など。多くは様々な人に喜んで従わせる環境と機会とを与える(マタ4:1,10、使徒8:29)。2.「聖霊の感動」:原文では「聖霊に感じて」とある。シメオンが聖霊の示しを受け、自らキリストに必ず会うということを知っており、また「御霊に感じて」宮に入りイエスに会った(ルカ2:26~27)。イエスは「聖霊によって」喜びあふれた(ルカ10:21)。ヨハネは「御霊に感じて」幻を見た(黙1:10)。パウロは、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」と言うことができないと言った(Ⅰコリ12:3)。ユダ書には「聖霊によって祈る」とある。これはすなわち、人の思いと行いとが、ある時間内において聖霊の感動と支配を受けていることを表している。だから、シメオンを宮に入らせ、イエスを喜ばせ、ヨハネに幻を見せ、人にイエスが主であると言わせ、信者に祈りをさせたのである。「聖霊に感じて」とは聖霊の感動の中で、特殊な言行が表れることである。
3.「聖霊に満たされる」:これは聖霊が豊かにくだることであり、五旬節に弟子たちが聖霊のバプテスマを受けた時のように、聖霊に満たされることである(使徒2:4、9:17)。その後も各々聖霊に満たされた(使徒4:8,31、13:9,52)。特殊な御霊の働きのために、あるいは人が祈り求めることによって、聖霊は常に人に特別な導き、感動、啓示の働きを伴わせ、しばしば人に満足と様々な恵みを与える(Ⅰコリ12:11)。
4.「聖霊のバプテスマ」:すなわち「聖霊に浸される」ことである。この「バプテスマ」は、聖霊を受ける時の一時的な感動や導きを指すのではなく、正式に聖霊を受け、かつ、証を伴う事実のことを指す。その性質は父なる神が約束された聖霊であって、信者に与えられるものである。これは世の全ての人が受けられるものではない(ヨハ14:16~17)。神の真の福音によって召されて信じたクリスチャンのみが、この約束の聖霊を受けられるのである(エペ1:13)。神は保証として御霊をわたしたちに賜ったのである(Ⅱコリ5:5)。「賜る」という言葉に気を付けなければならない。これは一時のある働きだけのための導き、感じ、満たされるのではなく、永遠に私たちの内にあるものである。言い換えれば、「聖霊のバプテスマ」とは、一度受ければ、私たちの内に永遠に湧き出る泉なのである。一度豊かに注がれ、永遠のいのちを望むことによって、御国をつぐ者となる(テト3:6~7)。これは霊のバプテスマが私たちに与える特別な保証である。この霊のバプテスマは人に対して「現れる」「入る」「宿る」「変わる」の4つのステップの力で、キリストの内において私たちに救いとあがないの働きを全うさせるのである。また霊のバプテスマは教会に対しても、全ての信者をキリストの内において一体とならせ、人種や階級を取り去らせる(Ⅰコリ12:12~13)。これは教会が一つになるための不可欠な要素である(エペ4:3)。
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答:極めて誤った考えである。現在、各教派では、霊の恵みに対して公に反対する人が多く、極めて危険な偏見がある。それは異言を語ったり奇跡を行ったりすれば、それは邪霊または偽キリストであるとすることであり、これは彼らが「霊恩派」の習慣を非難するかのようである。異言を語ることのできない教会のみが正統派の聖霊であり、聖書の教えに合っていると思い込んでいる。この考え方は明らかに誤っている。このような偏見をもたらした原因は、すなわち彼らの教会の中には、長い間誰一人「聖霊のバプテスマ」を受けたことがなく、聖書の基準に符合する者もなく、聖霊を受けて異言を語り、聖書に記載されている聖霊が全て備える賜物の現れがある者が誰一人いないからである。霊に属する教会のあるべき基準からすれば、これは基準に達していない大きな欠点であり、決して強弁して故意にかばおうとすることによって補うことはできない。しかし、彼らは一歩も前に進もうと望んでおらず、また、心を虚しくして聖霊のバプテスマを祈り求め、各霊的な賜物を求めようともしない。かえって、聖書の教えを曲げ、さんざん頭を使い、常に聖霊を受けて異言を語ることは不必要であるとこじつけて、自分たちの教会の現状に合うようにしている。
また、異言を語る者すべてを邪霊の仕業であるとする。この盲目で大胆な謗りは、自らを、いつまでゆるされない、永遠の罪に定めているではないか(マル3:29)。軽々しく人を邪霊とすることは、人を敵にまわすのではなく、神を敵にまわすことになるであろう(使徒5:39)。それだけではなく、彼らは公に信者に聖霊を祈り求める必要はないとしているが、これは明らかに使徒ペテロ、ヨハネ、パウロの手本に背く行為である(使徒8:15、19:6)。この世の末において、ゼカ10:1に書かれている、「あなたがたは春の雨の時に、雨を主に請い求めよ。主はいなずまを造り、大雨を人々に賜い、野の青草をおのおのに賜わる」が成就されたように、現在はまさに春の雨の聖霊がくだる時である。だから私たちは神に雨を請い求めるべきである。この雨とは聖霊のことであり、理にかなっている。今日の教会と各信者は切にこれを請い求める必要がある。私たちのかわいた心、教会の働きにおける荒廃は極めて激しい。これでも、神に露を降らせてかわいた畑をよみがえらせ、また、私たちの乾いた心を潤してくださるよう求めなくてもよいというのであろうか。 -
答:聖書にはこう書かれている、「愛する者たちよ、全ての霊を信じることはしないで、それらの霊が神から出たものであるかどうか、ためしなさい」(Ⅰヨハ4:1~2)。従って、邪霊の混乱の可能性がないことはない。しかし、悪魔の働きに隙を与えなければ、邪霊が入ることはない。集会の時は、主の御名によるため主が共におられ、悪魔に隙を与える機会が少ない、と私たちは信じている。但し、人が悪魔に隙を与えてしまうことも避けがたい。例えば、ユダは主を売り渡すことを計画していたため、サタンが彼の心の中に入ってしまった(ヨハ13:27)。アナニヤは聖霊を欺くことを考えていたため、自分の心をサタンに奪われた(使徒5:3)。サウロは神の命令に背いたため、ダビデを大いに恨み、悪魔が彼の身に臨んだ(サム上18:9~10)。聖霊を祈り求める時、もし心が正しくなく、故意に試みたり、欺いたりすれば、直ちに邪霊に隙を与えてしまう。だから、主の御名によって、信仰心、清い心、貧しい心、切なる心で神に祈り求めれば、父なる神は聖霊を私たちに与えて下さり、邪霊に混乱させられる可能性はない。また、私たちは祈る時、主イエスの御名によってととなえるほかに、よく「ハレルヤ」ととなえる必要がある。これは神を讃美するという意味であり、悪魔を追い出す力もあり、邪霊を入らせない。異言で祈る時は必ず「ハレルヤ」と言うべきである。これにより、私たちは祈りの中において邪霊に勝つことができるのである。
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答:聖書ではこう教えている、「全ての霊を信じてはならない。全て試さねばならない」。これはクリスチャンの備えるべき常識であり、教会においてもある人たちは「霊を見分ける」力を持っている(Ⅰコリ12:10)。このようにすれば邪霊の混乱に対応することができ、聖霊か邪霊かを見分けることができる。主は言われた、「その実によって彼らを見わけるであろう」。これは試みと識別の原則であり、「実」とは形態、言語、思想、行いを含んでいる。その他に、聖書では試みと識別の幾つかの例を教えている。
1.イエスを認めない:「イエスを告白しない霊は、すべて神から出ているものではない。これは、反キリストの霊である」(Ⅰヨハ4:3)。また、イエス・キリストが肉体となって来られたことを認めない。「父と御子とを否定する者は、反キリストである」(Ⅰヨハ2:22)。これはキリストに敵対する不信な者を指すだけではなく、キリスト教のある一派の人たちをも指すのである。彼らはイエス・キリストが肉体となって来られた神であることを認めず、罪をあがなう救い主であることを認めない。ただ彼を聖人または偉人として認め、イエス・キリストの神格を否定し、イエスが死より復活して昇天され、再臨されることを信じない。これはすなわち、反キリストの霊である。現在の新神学の「不信派」はこれに属する。
2.世に属する:「彼らは世から出たものである。だから、彼らは世のことを語り、世も彼らの言うことを聞くのである。しかし、わたしたちは神から出たものである。神を知っている者は、わたしたちの言うことを聞き、神から出ない者は、わたしたちの言うことを聞かない。これによって、わたしたちは、真理の霊と迷いの霊との区別を知るのである」(Ⅰヨハ4:5~6)。「迷いの霊」とは、人に世のことを重んじさせ、世のことを語らせる。また世の人の歓迎を受け、皆彼らの言うことに聞き従う。なぜなら、悪魔は「世の神」であるからである。パウロはこう言った、「この世の霊」(Ⅰコリ2:12)は人に世のことだけを語らせ、神の霊に属する聖霊のことを悟らせないばかりでなく、逆に人々を愚かな迷いの信仰に導く(Ⅰコリ2:14)。故に、彼らは神に属する人の語ることに聞き従わない。なぜなら、彼らの受けたものは「この世の霊」であるから、神に属する思いを知ることができない。私たちの受けた霊は神から来る霊、すなわち真理の霊であり、霊的なことを見通すことができる。また世のことを十分に悟ることができ、世の如何なる思想や理論をも超越している。よって、私たちは彼らに聞き従って、自分の信仰と真の道の奥義を放棄してはならない。教会の中で世に属する思想や理論が生じるなら、それは人を世にならわせ、流れに迎合させることになる。これはすなわち「この世の霊」と「迷いの霊」とが浸透したことになるため、分別すべきである。
3.戦いを激励する:「これらは、しるしを行う悪霊の霊であって、全世界の王たちのところに行き、彼らを召集したが、それは、全能なる神の大いなる日に、戦いをするためであった」(黙16:14)。悪霊は人の心を操り、戦いを激励し、平和を取り去る。また人の身に取りついて恐ろしい姿とならせ、制御することもできなくなる(ルカ8:29)。「悪霊につかれている人が、彼らに飛びかかり、みんなを押えつけて負かしたので、彼らは傷を負ったまま裸になって、その家を逃げ出した」(使徒19:16)。悪霊につかれた人は、人に害を与えるばかりでなく、自身にも害を与える(マル5:5)。悪霊の姿は恐ろしく凶暴であり、叩いたり、罵ったり、人を傷つけたりする。これが悪霊につかれた時の状態である。
4.汚れ:「倒れた、大いなるバビロンは倒れた。そしてそれは悪魔の住む所、あらゆる汚れた霊の巣くつ、また、あらゆる汚れた憎むべき鳥の巣くつとなった。すべての国民は、彼女の姦淫に対する激しい怒りのぶどう酒を飲み」(黙18:2~3)。悪魔はもともと汚れの霊であるため、人を汚れの道に導くのである(Ⅱペテ2:2,18)。もし邪霊が人の心に入り込んだら、その人の考えを曲げ、世を愛する者とならせ、世を友とさせ、堕落した生活に陥らせるのである(ヤコ4:4)。
5.真の道を離れる:「御霊は明らかに告げて言う。後の時になると、ある人々は、惑わす霊と悪霊の教とに気をとられて、信仰から離れ去るであろう」(Ⅰテモ4:1)。邪霊は真実であるかのような学説や理論、或いはサタンの「深み」を使う(黙2:24)。例えば、「むなしい哲学」、「人間の言伝え」、「世の理学」がそれである(コロ2:8)。人を誘惑して聞き従わせ、虜とならせてついには真の道から離れ去らせるのである。教会の中でもにせ教師が現れ、滅びに至らせる異端をひそかに持ち込むことがある(Ⅱペテ2:1)。また、福音を曲げ(ガラ1:7)、聖書を無理に解釈し(Ⅱペテ3:16)、キリストの教をとおり過ごし(Ⅱヨハ9)、違った教えを伝えている(Ⅰテモ6:3、へブ13:9)。これらは、よく見られる邪霊の働きである。すべて「異教」の理論を、聖書の真理と混ぜて人に教える。すなわち、八卦五行学説や儒教、仏教、回教の信仰、哲理などの混合した教えに注意しなければならない。「異教の風に揺らされる」傾向にあるため、謹んで防がねばならない。
6.不安を起こさせ掻き乱す:「主の霊はサウルを離れ、主から来る悪霊が彼を悩ました」(サム上16:14~15)。悪霊を受けた人には明らかな現象が現れる。それは悩まされ不安にさせられ、秩序のないことを言う(サム上18:10)。そして外見と心のどちらにも平安と喜びがなくなる。これは他人から見ても分かることで、サウロの僕たちも一見して主人が悪霊に悩まされているということが分かっていた。サタンは光の天使を装うこともできるが、霊を試し、見分けられる霊的な人の目をごまかすことはできない。ある悪霊に取りつかれた女が、パウロの後について、「この人たちは、いと高き神の僕たちで、あなたがたに救の道を伝えるかただ」と叫んだが、これは偽善の邪な言葉であり、パウロは困りはてて、主イエスの名によって悪霊を追い出した(使徒16:17~18)。悪霊も神がいと高きかたであることを認め、神の子と僕をおそれることも知っている。これは悪霊に取りつかれた人によく見られる状態である(マル5:6、ルカ4:34)。しかしながら、人の身に現れる災い、乱れ、不安等の悪果を隠すことはできないため、追い払われる。
聖書には「預言者の霊は預言者に服従するものである。神は無秩序の神ではなく、平和の神である」とある。聖霊を受ける時は常に、振動する、涙を流す、歌を歌う、異言を語るなどの現象があるが、それでいて、穏やかで従順であり、集会中は秩序が守られ、乱れず、過度に振動したり、倒れて大声でわめいたり、自制することが分からないことはない。平和、善良、喜び、節制の良き態度が必ずある。教会の集会で祈る時には、伝道者はその場を管理しなければならず(サム上19:20)、邪霊が掻き乱すのを未然に防ぐべきであり、決して放任してはならない。