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聖餐

  • 一、 聖餐とは何か?

    答:即ち「主の晩餐」である。これは完全な名称で、コリント人への第一の手紙十一章20節で確定されたものである。この晩餐は主イエスが設立され、賜ったものであるから、「主の食卓」(Ⅰコリ10:21)とも呼ばれる。現在の多くの教会は「聖餐」と呼んでいる。「晩餐」は午後から夜にかけて行われた意味もある。

  • 二、主が自ら聖餐を設立された聖書の根拠はどこか?

    答:四ヶ所に重要な聖句がある:(1)マタ26:26~29。(2)マル14:22~25。(3)ルカ22:19~20。(4)Ⅰコリ11:23~25。これらは主が売られる晩に聖餐を設立された事実を記載したところである。この四ヶ所とも「契約」、或いは「新しい契約」と表明し、主の聖餐は神と人との間の新しい契約の始まりであることを表した。

  • 三、このほか、聖餐に関する意義の根拠はどこか?

    答:ヨハネによる福音書六章52~58節は主が聖餐を設立される前の預言と約束である。主が言われる、「わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物である」。この時の弟子たちはイエスが何を指して言われたのかは分からなかったが、主が売られる晩、弟子たちと晩餐を取り、聖餐を設立された時にこの言葉が成就された。

  • 四、主の聖餐は何で設立されたのか?

    答:「主のパン」と「主の杯」(Ⅰコリ11:27)で設立された。即ち、一つの種なしパンと一杯のぶどう汁を用いる(マタ26:29)。

  • 五、主はどのように聖餐を設立されたのか?

    答:「イエスはパンを取り、祝福してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、『取って食べよ、これはわたしのからだである』。また杯を取り、感謝して彼らに言われた、『みな、この杯から飲め。これは、罪のゆるしを得させるように、多くの人のために流すわたしの契約の血である』」(マタ6:26~28)。主はこれらの動作によって、パンと杯が自分のからだと血であると説明された。この言葉は非常に重要である。

  • 六、主の聖餐と過越の祭りとの相違点は何か?

    答:聖餐と過越の祭りの意義は同じであるが、二つの事である。一つは新約に属し、もう一つは旧約に属する。過越の祭りは旧約時代の一大祭りであり、ほふられる小羊はイエス・キリストを預表する。聖餐の中でわたしたちに賜ったのは神の真の小羊であり、イエス・キリストご自身である。わたしたちはその肉を食べ、その血を飲むのである。これは「キリストは、すでにほふられた」(Ⅰコリ5:7)事を証明されたわけである。彼は一度だけご自身を捧げられたことによって、わたしたちに永遠かつ完全な救いを与えられたのであって(ヘブ9:26,28、10:12,14)、旧約時代のように毎年定期的に過越の祭りのささげ物をするのと違う(出エジ12:5~6,27)。というのは、「これらのことに対するゆるしがある以上、罪のためのささげ物は、もはやあり得ない」(ヘブ10:18)。

  • 七、聖餐の設立は新約にとってどんな関係があるのか?

    答:主が聖餐を設けられた晩は旧約の完結と新約の成立を宣告する時である。主は杯を取って、「この杯は、わたしの血で立てられる新しい契約である」(ルカ22:20、Ⅰコリ11:25);「わたしの契約の血である」(マタ26:28、マル14:24)と言われた。旧約は血を流すことなしに成立したのではない(ヘブ9:18)のと同様、新約もそうである。新約はさらにまさった約束に基づいて立てられ(ヘブ8:6)、主イエスはさらにまさった契約の仲介者である(ヘブ8:6、9:5)。彼が多くの人のために流された血は契約を立てる証拠にされた(ヘブ9:20)。彼の流された血のみ、わたしたちの罪をゆるすことができる(ヘブ9:22)。これが神と人との間に立てられた罪を赦す新しい契約である。

  • 八、聖餐は主の恵みなのか?それとも人為的な記念の式典なのか?

    答:ある人は聖餐を人為的な記念の式典であり、主の血が流された功労を記念するだけのものであって、聖餐から得られるものはないと思っている。これは聖餐の一面である。事実、パウロが言う「主の聖餐を食する」、「主の食卓にあずかる」の意義から見て、この食し、飲むことは主から恵みを得ることであり、単なる記念行為ではない。主は「わたしを記念するために、このように行いなさい」と言われたが、これはわたしたちが主に対する記念の態度である。しかし、主はその「パン」と「杯」によって、わたしたちに賜る霊的な恵みはわたしたちの記念を遥かに越えている。だから、聖餐は主を記念すると同時に、主の恵みを受ける時でもある。

  • 九、聖餐が主の恵みなら、なぜ私たちは主を記念するために行うのか?

    答:聖餐のパンと杯は主の物であり、主が私たちのために設けられたのであって、私たちが主のために設けたのではない。私たちにとって、できることは主に命じられた通りに、彼のために用意することしかできない(マタ26:17~19)。主イエスは聖餐の主人であるため、彼はこう言われた、「取って食べよ」、「この杯から飲め」(マタ26:26~27)。私たちはただ記念と感謝の心をもって、主の食卓の前に来て、彼の賜るものを食べ、飲むだけである。

  • 十、主のパン、主の杯はどんな性質を持っているのか?

    答:聖餐に用いられる物は簡単である。一つの種なしパンと一杯のぶどう汁である。これは教会が主の手から受け継いだものである。性質から見て、この二つのものは主の手にあったとき、何か加えられたり、本質を変えられたりすることはない。しかし、主はこれを祝謝してから、「これはわたしのからだである」、「これはわたしの血である」と言われた。「…は…である」をもって「パン」と「杯」の性質を確定させ、霊に属すものに化したのである。というのは、主の言葉は霊であり、命である。彼は全能の神であるから、言われた言葉を成就させる力をもっておられる。私たちはただ主の言われた通り、このパンは主のからだ、杯は主の血であることを信じるのみである。

  • 十一、では、なぜ直接「この体を食べ、この血を飲め」と言わずに、「このパンを食べ、この杯を飲め」と言うのか?私たちは普通のパンを食べ、杯を飲んだのと同じ事にならないのか?

    答:主は聖餐を設立されたとき、パンをご自分のからだ、杯をご自分の血とされたのである。主はこのようにされたのは、ご自分のからだを「まことの食べ物」、血を「まことの飲み物」にならせるためである(ヨハ6:55)。言い換えれば、主のパンを通さなければ、主の肉を食べることはできない。主の杯を通さなければ、主の血を飲むことはできない。これはパンと杯がなければ、主のからだと血がないと言うことではなく、パンと杯があることによって、私たちは主のからだを食べ、主の血を飲むことができたのである。でなければ、どうやって私たちにそのからだと血を与えて食べさせるのか(ヨハ6:52)。外見から見て、私たちはパンと杯を食べたが、主の言われた霊の言葉から見て、私たちが食べたのは本当の主のからだと血である。主は力をもって、ご自分の言われた通りに、用いられるパンと杯をご自分のからだと血とに霊化させたのである。

  • 十二、主の聖餐を受けると、どんな恵みがあるのか?

    答:聖餐を受ける人には次の恵みが得られる:
    1.主と交わりを結ぶ:「わたしたちが祝福する祝福の杯、それはキリストの血にあずかることではないか。わたしたちがさくパン、それはキリストのからだにあずかることではないか」(Ⅰコリ10:16)。聖餐をいただくことは主と最も密接な交流とつながりを持つことである。


    2.霊の命を保つ:「よくよく言っておく。人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない」(ヨハ6:53)。人が命を得られるのは主の霊によるものである。主の肉と血は霊の糧である。「わたしは天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者は、いつまでも生きるであろう。わたしが与えるパンは、世の命のために与えるわたしの肉である」(ヨハ6:51)。この言葉は聖餐のことも含まれている。主の聖餐を頂くことによって、私たちの霊の命をもっと豊かにすることができる。主の肉と血の霊的ば活力は魂の奥に浸透し、永遠に保たれることができる。


    3.教会を結合させる:「パンは一つであるから、わたしたちは多くいても、一つのからだなのである。みんなの者が一つのパンを共にいただくからである」(Ⅰコリ10:17)。パンは一つである。みんなが共に主のからだをいただき、各自が主と交わり、連合されるばかりでなく、各々も互いに交わり、結び合って、新しい粉のかたまりになるのである(Ⅰコリ5:7)。その一つのパンがみんなのために裂かれたのは、これをいただいたみんなが互いに一つとなって、キリストにあって一体となるためである(ロマ12:5)。


    4.世の末の日に復活する:「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり、わたしはその人を終わりの日によみがえらせるであろう」(ヨハ6:54,57)。主のからだは永遠に生きるものである。彼は一度死なれたが、からだが朽ちることはなかった。神が彼をよみがえらせた(使徒2:31~32)ことによって、主は死んだ人がよみがえることの初穂となったのである。だから、主の聖餐をいただく者は、世の末の日に、主が復活されたときと同じように、からだは必ず死からよみがえるのである(ピリ3:21、Ⅰコリ15:44,52)。

     

  • 十三、主の聖餐をいただいた私たちは、上記の恵みを受けられるほか、どんな本分を尽くすべきか?

    答:
    1.主の恵みを記念する:「わたしを記念するために、このように行いなさい…飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい」(Ⅰコリ11:24,25)。主がわたしたちのために命をささげ、血を流された御恵みを忘れることはできないのだから、主の聖餐をいただくたびに、もっと沈痛な心で記念する。まさにパウロが、「神の御子はわたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた」(ガラ2:20)と言ったように。

    2.主の死を告げ知らせる:「あなたがたは、このパンを食し、この杯を飲むごとに、それによって、主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである」(Ⅰコリ11:20)。記念は内心の追想であり、告げ知らせるとは事実を伝えることである。

    3.主の契約を永遠に守る:「この杯は、わたしの血で立てられる新しい契約である」(ルカ22:20)。契約を立てる本意は罪をゆるすためである。だから、聖書には、「これが、彼らの罪を除き去る時に、彼らに対して立てるわたしの契約である」(ロマ11:27)とある。神は古代のイスラエル人と契約を結ばれたが、彼らがその契約にとどまることをしないので、神も彼らをかえりみられなかった(ヘブ8:9)。今日、神は御子の血によって、私たちと罪をゆるすための新しい契約を結ばれた。神は真実であり、ご自身に背くことはない。だから、わたしたちはこの契約を堅く守りとおすべきである。すなわち、ことさらに罪を犯しつづけず、わたしたちを聖なる者とする契約の血を汚れたものとしないことである(ヘブ10:26,29)。

    4.主がこられる時を待つ:「主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせる」。「主の死」と「主のこられる」事は二つのことである。主の聖餐をいただくたびに、主の死を告げ知らせる一方、主のこられることを待ち望むのである。だから、聖餐はわたしたちに十字架を記念させるばかりでなく、心から主イエス・キリストのご再臨を望み、慎んで用意させるためでもある。

  • 十四、主の聖餐をいただくには、決められた日にちと回数はあるのか?

    答:聖書には聖餐を行う日にちと回数の規定はない。教会の状況と必要に応じて行うがよい。聖書はわたしたちに大きな自由を与え、ただ「このパンを食し、この杯を飲むごとに」と言った。どんなときとはっきりした規定はない。だから、会衆の必要と各教会の実情に応じて聖餐を行う日にちと回数を決める。主が「受難」された日に聖餐を行い、主の死を記念するべきであると主張する人もいるが、果たして「受難節」は主が売られたその晩なのか?確定することは難しい。たとえ確定できても、この祭りを守る必要があるとは言えない。また、この祭りは虚偽性があるため、この日を選んで、純粋で真実な種なしパンを食べ、主の死を記念することはふさわしくない(Ⅰコリ5:8)。「祭りの日」に由来するのではなく、諸教会が一緒に主の死を記念するために、同時に聖餐を行う日を定めることもまた有意義である。

  • 十五、どんな人が主の聖餐をいただけるのか?

    答:信じてバプテスマを受けた人のみが聖餐をいただける。旧約時代のように、割礼を受けた人のみが過越の祭りの小羊を食べ、異邦人は食べてはならない(出エジ12:43)。

  • 十六、聖餐をふさわしくいただくには、どうしたらよいのか?

    答:コリント教会はふさわしくないまま飲み食いしたため、パウロに「主の晩餐を守ることができないでいる」(Ⅰコリ11:20)と指摘された。これは自分にさばきを招く重い行為である。主のパンと血は極めて神聖なものであり、もしこれを主のからだと血であるとわきまえずに飲み食いするならば、その飲み食いによって自分にさばきを招くのであって(Ⅰコリ11:29)、不幸を招くものである(Ⅰコリ11:30)。時にはさばかれ、主の懲らしめを受けことさえある(Ⅰコリ11:32)。だから、次のいくつかの点を念頭において、聖餐をいただくべきである。

    1.ふさわしく:主の聖餐は肉体の食欲を満たす物ではなく、俗世の祭り事でもない。それは主が賜った霊に属する恵みの宴会であり、私たちはこれによって主の死を記念し、告げ知らせると同時に、主はこれをもって私たちに格別な恵みを賜われるのである。だから、真理に従い、ふさわしくこれをいただけば、主のからだと血を犯さないことになる(Ⅰコリ11:27)。

    2.自分を吟味する:いただく前に、自分を吟味し、もし良心に責められる、或いは聖餐をいただくのに矛盾があると自覚したならば、良心の不安と矛盾を取り除くまで、いただかない方がよい(Ⅰコリ11:28)。聖書はこう教える:「もし心に責められるようなことがなければ、わたしたちは神に対して確信を持つことができる。そして、願い求めるものは、なんでもいただけるのである」(Ⅰヨハ3:21~22)。

    3.わきまえる:主のパンは主のからだ、主の杯は主の血であることをわきまえ、一般の物質として取り扱ってはならない(Ⅰコリ11:29)。主イエスはかつて「ご自分を聖別された」(ヨハ17:19)のであるから、私たちはその尊いからだと血とをなおさら聖別しなければならない。

     

  • 十七、聖餐をいただいてから、どうするべきか?

    答:主は「あなたがたのために身を捨て、血を流した」と言われた。だから、私たちは心でこの事を記念するだけでは足りない。聖餐をいただいたならば感謝と献金をしなければならない。アブラハムはいと高き神の祭司メルキゼデクのパンと酒と祝福をいただいた後、彼にすべての物の十分の一を贈った(創14:18~20)。私たちはこの模範を見習うべきである。主イエスはメルキゼデクに等しく、天において、私たちの永遠の大祭司をされているからである(ヘブ6:20)。

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(参考聖句:Ⅰヨハ5:20、ヨハ15:1、5、17:3)