答:聖書ではこう教えている、「全ての霊を信じてはならない。全て試さねばならない」。これはクリスチャンの備えるべき常識であり、教会においてもある人たちは「霊を見分ける」力を持っている(Ⅰコリ12:10)。このようにすれば邪霊の混乱に対応することができ、聖霊か邪霊かを見分けることができる。主は言われた、「その実によって彼らを見わけるであろう」。これは試みと識別の原則であり、「実」とは形態、言語、思想、行いを含んでいる。その他に、聖書では試みと識別の幾つかの例を教えている。
1.イエスを認めない:「イエスを告白しない霊は、すべて神から出ているものではない。これは、反キリストの霊である」(Ⅰヨハ4:3)。また、イエス・キリストが肉体となって来られたことを認めない。「父と御子とを否定する者は、反キリストである」(Ⅰヨハ2:22)。これはキリストに敵対する不信な者を指すだけではなく、キリスト教のある一派の人たちをも指すのである。彼らはイエス・キリストが肉体となって来られた神であることを認めず、罪をあがなう救い主であることを認めない。ただ彼を聖人または偉人として認め、イエス・キリストの神格を否定し、イエスが死より復活して昇天され、再臨されることを信じない。これはすなわち、反キリストの霊である。現在の新神学の「不信派」はこれに属する。
2.世に属する:「彼らは世から出たものである。だから、彼らは世のことを語り、世も彼らの言うことを聞くのである。しかし、わたしたちは神から出たものである。神を知っている者は、わたしたちの言うことを聞き、神から出ない者は、わたしたちの言うことを聞かない。これによって、わたしたちは、真理の霊と迷いの霊との区別を知るのである」(Ⅰヨハ4:5~6)。「迷いの霊」とは、人に世のことを重んじさせ、世のことを語らせる。また世の人の歓迎を受け、皆彼らの言うことに聞き従う。なぜなら、悪魔は「世の神」であるからである。パウロはこう言った、「この世の霊」(Ⅰコリ2:12)は人に世のことだけを語らせ、神の霊に属する聖霊のことを悟らせないばかりでなく、逆に人々を愚かな迷いの信仰に導く(Ⅰコリ2:14)。故に、彼らは神に属する人の語ることに聞き従わない。なぜなら、彼らの受けたものは「この世の霊」であるから、神に属する思いを知ることができない。私たちの受けた霊は神から来る霊、すなわち真理の霊であり、霊的なことを見通すことができる。また世のことを十分に悟ることができ、世の如何なる思想や理論をも超越している。よって、私たちは彼らに聞き従って、自分の信仰と真の道の奥義を放棄してはならない。教会の中で世に属する思想や理論が生じるなら、それは人を世にならわせ、流れに迎合させることになる。これはすなわち「この世の霊」と「迷いの霊」とが浸透したことになるため、分別すべきである。
3.戦いを激励する:「これらは、しるしを行う悪霊の霊であって、全世界の王たちのところに行き、彼らを召集したが、それは、全能なる神の大いなる日に、戦いをするためであった」(黙16:14)。悪霊は人の心を操り、戦いを激励し、平和を取り去る。また人の身に取りついて恐ろしい姿とならせ、制御することもできなくなる(ルカ8:29)。「悪霊につかれている人が、彼らに飛びかかり、みんなを押えつけて負かしたので、彼らは傷を負ったまま裸になって、その家を逃げ出した」(使徒19:16)。悪霊につかれた人は、人に害を与えるばかりでなく、自身にも害を与える(マル5:5)。悪霊の姿は恐ろしく凶暴であり、叩いたり、罵ったり、人を傷つけたりする。これが悪霊につかれた時の状態である。
4.汚れ:「倒れた、大いなるバビロンは倒れた。そしてそれは悪魔の住む所、あらゆる汚れた霊の巣くつ、また、あらゆる汚れた憎むべき鳥の巣くつとなった。すべての国民は、彼女の姦淫に対する激しい怒りのぶどう酒を飲み」(黙18:2~3)。悪魔はもともと汚れの霊であるため、人を汚れの道に導くのである(Ⅱペテ2:2,18)。もし邪霊が人の心に入り込んだら、その人の考えを曲げ、世を愛する者とならせ、世を友とさせ、堕落した生活に陥らせるのである(ヤコ4:4)。
5.真の道を離れる:「御霊は明らかに告げて言う。後の時になると、ある人々は、惑わす霊と悪霊の教とに気をとられて、信仰から離れ去るであろう」(Ⅰテモ4:1)。邪霊は真実であるかのような学説や理論、或いはサタンの「深み」を使う(黙2:24)。例えば、「むなしい哲学」、「人間の言伝え」、「世の理学」がそれである(コロ2:8)。人を誘惑して聞き従わせ、虜とならせてついには真の道から離れ去らせるのである。教会の中でもにせ教師が現れ、滅びに至らせる異端をひそかに持ち込むことがある(Ⅱペテ2:1)。また、福音を曲げ(ガラ1:7)、聖書を無理に解釈し(Ⅱペテ3:16)、キリストの教をとおり過ごし(Ⅱヨハ9)、違った教えを伝えている(Ⅰテモ6:3、へブ13:9)。これらは、よく見られる邪霊の働きである。すべて「異教」の理論を、聖書の真理と混ぜて人に教える。すなわち、八卦五行学説や儒教、仏教、回教の信仰、哲理などの混合した教えに注意しなければならない。「異教の風に揺らされる」傾向にあるため、謹んで防がねばならない。
6.不安を起こさせ掻き乱す:「主の霊はサウルを離れ、主から来る悪霊が彼を悩ました」(サム上16:14~15)。悪霊を受けた人には明らかな現象が現れる。それは悩まされ不安にさせられ、秩序のないことを言う(サム上18:10)。そして外見と心のどちらにも平安と喜びがなくなる。これは他人から見ても分かることで、サウロの僕たちも一見して主人が悪霊に悩まされているということが分かっていた。サタンは光の天使を装うこともできるが、霊を試し、見分けられる霊的な人の目をごまかすことはできない。ある悪霊に取りつかれた女が、パウロの後について、「この人たちは、いと高き神の僕たちで、あなたがたに救の道を伝えるかただ」と叫んだが、これは偽善の邪な言葉であり、パウロは困りはてて、主イエスの名によって悪霊を追い出した(使徒16:17~18)。悪霊も神がいと高きかたであることを認め、神の子と僕をおそれることも知っている。これは悪霊に取りつかれた人によく見られる状態である(マル5:6、ルカ4:34)。しかしながら、人の身に現れる災い、乱れ、不安等の悪果を隠すことはできないため、追い払われる。
聖書には「預言者の霊は預言者に服従するものである。神は無秩序の神ではなく、平和の神である」とある。聖霊を受ける時は常に、振動する、涙を流す、歌を歌う、異言を語るなどの現象があるが、それでいて、穏やかで従順であり、集会中は秩序が守られ、乱れず、過度に振動したり、倒れて大声でわめいたり、自制することが分からないことはない。平和、善良、喜び、節制の良き態度が必ずある。教会の集会で祈る時には、伝道者はその場を管理しなければならず(サム上19:20)、邪霊が掻き乱すのを未然に防ぐべきであり、決して放任してはならない。