答:主イエスは私達にこのように祈りなさいと教えられたからであり(マタ6:9、ルカ11:2)、信者一人一人に応じた需要が備わっている。各句の意義を以下に分析した:
1.「天にいますわれらの父よ」:神が私達の父である事を認める。これはなんと親しみ深い呼び名であろうか!もし私達が神の子たる身分を授けられなければ(エペ1:5)、神を父と呼べるであろうか?もし神が私達に恵みを与えられなければ、神の子となれるであろうか(ヨハ1:12)?もし御子の霊が私達の心に入らなければ、神をアバと呼ぶ資格があるであろうか(ガラ4:5~6)。故に真に再生された人だけが神の子となれる(ヨハ1:13、Ⅰヨハ3:1)。「あなたがたは、人をそれぞれのしわざに応じて、公平にさばくかたを、父と呼んでいるからには、地上に宿っている間を、おそれの心をもって過ごすべきである」(Ⅰペテ1:17)。神が父である以上、彼を敬わなければならない。父は天におられるから、より美しい私達の故郷も天にある(ヘブ11:16)。故に私達は自分がこの世の旅人であり寄留者である事を認め(Ⅰペテ2:11)、また天の家に帰って父に会える熱意を持ち、救い主イエスの再臨を待ち望み、私達を天の家に迎えてくださる事を慕い望む(ヨハ14:2~3)。正に主イエス曰く:「わたしは、わたしの父またあなたがたの父であって、わたしの神またあなたがたの神であられるかたのみもとへ上って行く」(ヨハ20:17)。
2.「御名があがめられますように」:主の御名は聖にして、おそれおおい(詩111:9)、しかし多くの人は神の御名をあがめず、汚している(エゼ36:20~21)。その原因は二つある:一つはサタンの画策した神の敵対者であり、彼らは神の御名と教会、即ち天に住む者たちを汚している(黙13:6、ヤコ2:7)。もう一つは信者の行いが悪いために神を信じない人が神の御名を汚している(Ⅰテモ6:1、箴30:9)。故にこの句の祈りの言葉は、神を信じない人が神に帰し、神の御名をあがめるだけでなく(黙15:4)、信者自身が善を行って人に神の御名をあがめさせる事でもある。これは私達が祈りの中において求める願いでもある。
3.「御国が来ますように」:神の国は天国とも称され、主イエスが伝道の時、初めに「天国は近い」と言われた。これは主が世において伝道される中心的なメッセージである。主の復活後、四十日間使徒たちに「神の国」について論じられた(使徒1:3)。クリスチャンの最大の目標は永遠の神の国に入る事である(Ⅱペテ1:11、Ⅱテモ4:18)。この国はこの世に属さず(ヨハ18:36)、神の御旨と力によって統治された天に属する国である。私達は朝夕神の国の完全なる実現について祈り求めなければならない。また神の国は聖霊の統治権を指す(マタ12:28)。主曰く:「神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」(ルカ17:21)、即ち聖霊が人の心に臨んだ時、「わたしの国籍は天国にある」となる(ピリ3:20)。
4.「みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」:神の御旨は天において何ものにも阻まれることなく成される。なぜなら力ある使いが御言葉に従って神の喜ばれる事を成就するからである(詩103:20~21)。しかし地において、またはサタンの妨げによって(ダニ11:13、Ⅰテサ2:18)、或いは信者の愚かさによって(エペ5:17)、例えば神がヨナをニネベの町に派遣したにもかかわらず、彼はタルシシへと逃げ(ヨナ1:2~3)、神の御旨を妨げて誤らせた。しかし神は意のままに万事を行い、神の約束されたご計画は不変である(ヘブ6:17)。神の手を押さえる者はいない(ダニ4:35)。わたしたちは神の御旨を行いとおさなければならない(ヘブ10:36)。主イエスが世に来られたのも神の御旨を行うために来られたのである(ヘブ10:7,9)。故に神の御旨によって救われる人として召された私たちは(Ⅱテモ1:9)、神の御旨をわきまえ(ロマ12:2)、深く知り(コロ1:9)、行い(マタ7:21、ヨハ4:34)、成就しなければならない(使徒21:14)。祈りの中において主の御旨を守り、行えるよう決心しなければならない(ヨハ7:17)。
5.「わたしたちの日ごとの食物を、今日もお与えください」:食物は命に必要な物であるから、これを求めるのは合理的な祈りである。父なる神と私達の関係は、日々必要な食物を神が与えられるほどに密接である。私達を満ち足らせてくださるのは神の恵みである(使徒14:17、Ⅰテモ4:4~5)。食物だけでなく、生活において必要なすべての物を天の父は初めから知っておられた(マタ6:8,32)。人は何も持たずにこの世に来た、「世界とその中に満ちるものは全て神のものだからである」(詩50:12)。私達は神からの物である事を知り、感謝してこれを頂く。どのようにして全ての必要な物を神から賜ることができるのか?それには:
(1)「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう」(マタ6:33)。
(2)「貧しい人々に分け与えるようになるために、自分の手で正当な働きをしなさい」(エペ4:28)。
(3)「自分の仕事に身をいれ、手ずから働きなさい。そうすれば、外部の人々に対して品位を保ち、まただれの世話にもならずに、生活できるであろう」(Ⅰテサ4:11~12)。
(4)「ただ衣食があれば、それで足れりとすべきである」(Ⅰテモ6:8、箴30:8~9)。
(5)「与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう」(ルカ6:38)。
(6)「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」(マタ4:4)。
6.「私達の負債をおゆるしください」:負債は罪であり、私達は神に無数の罪の負債を負っている。神は恵みによって私たちをゆるされ(マタ18:27)、仲保者である主イエスの死をもって返済された(ヘブ9:15)。ではなぜまだ神に私達の負債をゆるすように求めるのか?罪の負債には二種類ある:一つは不義を行う事、一つは善を行わない事(福音を伝える事も含む)であり、いかなる人も神に対して、この二種類の負債を負っている。主イエスの尊い血は私達の罪を清め、全ての不義をゆるされた(Ⅰヨハ1:7,9)。これは消極的な面で「不義から離れる」事である。しかし積極的な面では、多くの善を行って初めて完全にととのえられた神に属する者となることができる(Ⅱテモ3:17)。聖書曰く:「人が、なすべき善を知りながら行わなければ、それは彼にとって罪である」(ヤコ4:17)。故に私達は「不義から離れる」をもって自己満足せずに、神が準備した善を行ってこそ本分を尽くしたと言えるのである(エペ2:10、テト2:14)。善を知りながら行わない、行えるのに行わない、話すだけで行わない、これらは全て負債を負っていることになる。例えば十分の一献金(マタ23:23、マラ3:8)も行わないなら、十分に私達の負債となる。それを、へりくだって「私達の負債をおゆるしください」と父に求める。しかしこれは神にゆるしを求めることを通して「努めて善を行う」という責任から逃れるためではない(ヘブ10:24)。故に「私達の負債をおゆるしください」と神に求める意義は自分を励ますことである。「主のみこころにかなった生活をして真に主を喜ばせ、あらゆる良いわざを行って実を結ぶ」(コロ1:10)。
7.「わたしたちに負債のある者をゆるしましたように」:この句と上の句は連なっている。主イエスは使徒達に互いにゆるしあうように教えられ、この句を祈りの言葉の中に入れて励ましとされた。私達は互いをゆるさなければならない(マコ11:25~26、マタ5:23~24)。なぜなら神は既に私達をゆるされたのだから、私達も兄弟をゆるすべきだからである(マタ18:35)。教会の中にもし「互いに寛容になる」修養と「互いにゆるす」精神がなければ、兄弟間に起こる「いざこざ」と「恨み」の問題を解決することは出来ない(コロ3:13)。ただ愛をもって、無条件に互いを寛容になり、理解し、ゆるし、また「互いに罪を認め」、「互いに助祷する」(ヤコ5:16)。なぜなら愛は多くの罪を覆い(Ⅰペテ4:8)、大きいことを小さくし、小さいことを無にする事が出来るからである。それによってキリストの中において心を合わせて、一つになって、相和して、また平安と喜びを保つことが出来る。
8.「わたしたちを試みにあわせないで」:これは私達を悪の誘惑にあわせず、守ってくださるようにと神に求める事である。なぜなら「試み」は悪が人を罪に引き入れる手段であるからである(ヤコ1:14)。もしこれにあわなければ、誘惑される危険から免れる。主イエスが世におられた時、多くの試みにあわれたが、罪を犯さなかった(ヘブ4:15)。サタンの有名な試みが三つあったが、全て主は聖書の言葉をもってそれに打ち勝った。それは:
(1)神の御言に頼り、選択する余地のない誘惑に打ち勝つ。
(2)神を試みないで、おごり高ぶる挙動に打ち勝つ。
(3)ひたすら神に仕えることによって、世の栄華や名利の貪りに打ち勝つ。
サタンが今日クリスチャンを試みる時も同じ手段を使う。それに打ち勝つには、やはり主にならい聖書の言葉を運用する事である。主が聖書の言葉を引用してサタンに打ち勝った策が三つある:「神を信じて頼る」、「神をおそれ敬う」、「神に仕える」である。クリスチャンがこの三つの策を使いこなせば、主のように悪魔の全ての試みに勝つ事が出来る。私達は神に、わたしたちを試みにあわせないでと求めるが、もしあってしまったら、主に頼ってそれに勝つ。主は私達の弱さを思いやってくださる。試みにあう時には必ずそれに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである(Ⅰコリ10:13)。「主は、信心深い者を試錬の中から救い出される」(Ⅱペテ2:9)、故に「試錬を耐え忍ぶ人は、さいわいである」(ヤコ1:12)。
9.「悪しきものからお救いください」:これは世界の災いから救ってくださるように神に求める事である。例えばパウロが福音を伝えている時に迫害されたとき;パウロ曰く:「わたしは、ししの口から救い出されたのである。 主はわたしを、すべての悪のわざから助け出された」(Ⅱテモ4:17~18)。世界は罪によって乱れて、暴虐に満ち(創6:11)、人災天災及び全ての悪は尽きることなく現れる。信者が信心深く日々を過ごしても迫害を免れる事は難しい(Ⅱテモ3:12)。主イエス曰く:「この世はあなたがたを憎むのである」(ヨハ15:19)、また「あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」(ヨハ16:33)。「主は真実なかたであるから、あなたがたを強め、悪しき者から守って下さるであろう」(Ⅱテサ3:3)。
10.「国と、力と、栄えとは限りなくあなたのものであるからです。アーメン」:これは称賛の言葉であり、ダビデの称賛と同じである(歴代上29:10~13)。神の国、力、栄えは永遠であり、私達の国籍は天国にある(ピリ3:20)。将来神と共に王となり(黙21:6、22:5)、神の栄えに入る(ヘブ2:10、ロマ8:30)。このように私達は主と共に永遠にいる(Ⅰテサ4:17)。「アーメン」はヘブル語で、その意味は「誠の心を持って願う」であり、新約のギリシャ文にも「真実」と言う意義が含まれている(黙3:14)。