答:神は見えないが、神が存在することが分かる。聖書はこう教える:「ご自分のことをあかししないでおられたわけではない」(使徒14:17)。神は証を通して、人々にその存在を知らせ、証を持ってその存在を決定されるから、空想、推測されたものではない。
聖書には神がすべての人々に命と息と万物とを与えた(使徒17:25)と証言し、こ
れは神が我々一人一人の身の上にあらわされた証である。科学者は物質の元素を発見したが、命のない元素から命を生み出すことはできない。命の由来という大きな問題に関して、神が賜うほかに科学者では永遠に他の答えを見つけることはできない。だから、世界に「命」が存在すること自体が神の存在の証である。この証拠は各人の上にあらわされ、一番有力なるものではないか。このほか、次の各種の証拠を通して、神のいることが分かる。
1.万物の由来:「神の見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁明の余地がない」(ロマ1:20)。我々は天地万物の創造から客観的に神のいることを「認める」。でなければ、宇宙の万物はどこから来るのか。物には始まりがあって、終わりがある。では、その源はどこから来るのか。それは神である。
最近、一般的に有名な科学者たちも世界創造の問題を研究している。そして、証拠有る答えとしてあげられたのは、宇宙の中に一つ共同する出発点があり、始めに多くの星はこの同一の出発点から爆発した。科学者の中では、これを宇宙の種であり、この種は計り知れない「エネルギー」から出来ていると言っている。この「エネルギー」の固まりはどこから来るのか?どこに保存され、いつから存在するのか?科学者たちはこの問題をまだ解決できないでいる。この問題は存在しながら、論じることの出来ないものとなっている。
しかし、聖書は直接はっきりと我々にこう教えた:「わたしは主である。わたしはよろずの物を造り、ただわたしだけが天をのべ、地をひらき、――だれがわたしと共にいたか――」(イザ44:24)、「わたしは北の天に空間を張り、地を何もない所に掛けられる。」(ヨブ26:7)。科学者はいわゆる宇宙の種とエネルギーがどこから生まれたかは知らないが、我々は神が創造された物だと信じている。だから聖書はこう言われる:「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたものであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである」(ヘブ11:3)、「もろもろの天は主のみことばによって造られ、天の万軍は主の口の息によって造られた」(詩33:6)。
2.宇宙の秩序:秩序にはそれを保たせるものが存在する。電車が軌道上で時間を誤ってぶつかることなく正しく運行できるのはその秩序を維持する人がいるためである。天にある千万の星や銀河が各自の軌道に乗って乱れることなく自転、公転するには必ず一つの引力によって維持されている。地上の農作物、気候、昼夜、季節、雨露、動植物の生存、繁殖は各種類に従って、規律がある。この規律はどこから来るのか?電車が軌道上で時刻表通りに運行するには人の管理は必要なく、自然に秩序を守っているのだと言えるだろうか。明らかに、宇宙の中には万物を主宰し、その秩序を維持させ、その力ある言葉を持って万物を保って(ヘブ1:3)、万物を保有するかたがおられることを知る(ネヘ9:6、Ⅱペテ3:7)。
3.善良の源:湾曲があれば直線がある、暗闇があれば光がある、悪があれば善がある。
世界に罪悪がある以上、それに対抗する善がある。この善の出発点は神である。「よいかたはただ神ひとりだけである」(マタ19:17)。神は善悪を判断する心を人類に賜い(ロマ2:14~16)、世の人々が良心に従って道徳観念と神を信じる特性を持ち、宇宙の中に善なる真の神が存在することを感じさせる。だから、聖書はこう言われる:「神について知りうる事がらは、彼らには明らかであり、神がそれを彼らに明らかにされたのである」(ロマ1:19)、神が人の心に明かされたのは「道徳観念」と「良知特性」であり、これは人類と獣との相違するところである。
4.奇跡の証明:人にはできないことも神は何でもできる。神は世界を創造された奇跡のほか、度々自然を越える奇跡を行われた。聖書に明確な記載があるばかりでなく、今なお神の教会において、奇跡が起き、神を証明し(使徒2:22)、人々に神を知らせた(列王上18:38~39)。
5.御子の誕生:神は肉において現れた(Ⅰテモ3:16)、即ち人として世に誕生されたイエスである。これは空前絶後の一大事であり、西暦はこのことの真実性を表した。聖書で言われる「言葉が肉となり」、「言葉は神である」ことは神が肉体を持ってこの世に来られ、この世界は彼によって造られたことを表す。イエスがこの世に来られたのは失われたものを尋ね出して救うためであり(ルカ19:10)、真理を世の人々に告げ、見たこと聞いたことを証することによって、真の神を証明し(ヨハ4:22~23)、人が見たことのない神をあらわす(ヨハ1:18)。だから、イエスは言われた:「わたしを見た者は、わたしの父を見たのである」。
6.聖書の記載:この世界が創造されて以来、神の御旨と御業は聖書において不滅の記録を残し、神の過去と将来になされる事、その預言のすべてが成就されることを指示した。この聖書に神の証があり、記載されたことは歴代を通して、人と神とが接触した確かな経験と真理の啓示である。聖書は神の霊感を受けて書かれたものであるから、聖書を知れば、神の偉大なる力を知る(マル12:24)。
7.聖霊の能力:聖霊は神から出たものであり(ヨハ15:26)、イエスが肉体として世に誕生された後、継続的にこの世に遣わされたのである。聖霊は目に見えないが、上から来た力である(ルカ24:49)、聖霊が人の上に降ったとき、特殊な感覚があり、人の心に入ったとき、奇妙な感動を覚える。この超自然的な霊感と霊の力は多くの信者が体験したことのあるものである、わたしたちにこの聖霊を賜う神が存在することを証明できる(Ⅰテサ4:8)。
8.教会の証:「教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない」(エペ1:23)。教会は神に召され、新たに生まれ変わった団体であり、神と直接連合し、神の造られた万物の中で、教会は初穂である(雅1:18)。だから、神のすべての御旨、知恵、能力、栄光、真理、恵みは教会を通してあらわされる(エペ3:9~10)。満ちみちている神の豊かさはキリストの中にある。教会はキリストのからだであるから、キリストにあって神の豊かさを得られる(コロ2:9~10)。教会の信者は神を信じる私たちにあらわされた御力がいかに大きなものかを感じ取るべきである(エペ1:19)。だから、神は言われる:「あなたがたはわが証人、わたしが選んだわがしもべである。それゆえ、あなたがたは知って、わたしを信じ、わたしが主であることを悟ることができる。わたしより前に造られた神はなく、わたしより後にもない」(イザ43:10)。これは教会が神のいることを証明したものである。
9.善悪の報い:神は聖書の中で言われた:「報いを携えてきて、それぞれのしわざに応じて報いよう」(黙22:12)。報いは偶然的なものでなく、必然的な因果関係がある。善悪には遅かれ、早かれ必ず報いがある。これを司る者は誰か?世には善を賞し、悪を罰する権力を与えられた人がいる、これは義なる神によって立てられたものである(ロマ13:1~2)。神が自ら執行される善悪の報いは世の末の大審判であり、もっと厳密で徹底したものである。だから、聖書はこう言われる:「まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる」(ガラ6:7)。この因果応報は神の存在を証明できるものではないか?
10.悪魔の反証:世界に悪霊が存在することは多くの人に認められた事実であり、否定しても事実に勝てない。聖書には悪霊にとりつかれて理性を失い、誰も押さえることができない例もある(マル5:2)。悪霊にとりつかれた体は病気ではないので、医薬で治すこともできない。しかし、これら悪霊にとりつかれた人がイエスを見た時、「いと高き神の子イエスよ…どうぞ、わたしを苦しめないでください」と叫んだ。イエスは一言でこの悪霊を追い出し、人に平安を与えられた。これは聖書に限る例ではなく、今日も各地で悪霊にとりつかれて治せなかった者が、教会を通してイエスの御名によって悪霊を追い出し、癒された例もたくさんある。これによって、悪霊が存在する反面、いと高き神も存在することを証明できる。