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洗足

  • 一、洗足式の由来は?

    答:洗足は古代ユダヤ人が客をもてなす際の一つの礼儀である。例えば、アブラハムが天使をもてなした時に、「水をすこし取ってこさせますから、あなたがたは足を洗って…せっかくしもべの所においでになったのですから」(創18:4~5)。この礼儀は主イエスの時代にも伝えられた。パリサイ人シモンが主イエスを食事にもてなした時、足を洗う水を用意しなかったため、主に指摘された(ルカ7:44)。これは主に対する尊敬が欠けているからである。人の足を洗うことは卑しいことであり、しもべのすることである。バプテスマのヨハネは主に謙遜の意を表すため、主の靴ひもを解く値うちもないと言った。「聖徒の足を洗う」ことは使徒時代の年老いたやもめの美徳にもなっている(Ⅰテモ5:10)。

     

  • 二、洗足はどのようにして新約教会の聖なる儀式になったのか?

    答:ヨハ13:1~20に主イエスが洗足式を設立された事実について詳しく書いてある。そして、弟子たちに実行するよう命じられたばかりでなく、ご自身も弟子たちの足を洗われた。その動作は次の通り:(1)席から立ち上がる。(2)上着を脱ぐ。(3)手ぬぐいを取って腰に巻く。(4)水をたらいに入れる。(5)弟子たちの足を洗う。(6)腰に巻いた手ぬぐいで足を拭く。(7)彼らの足を洗ってから、上着をつけ、再び席に戻った。そして、弟子たちに言われた、「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしは手本を示したのだ。もしこれらのことがわかっていて、それを行うなら、あなたがたはさいわいである」。だから、洗足式は教会にとって行わなければならない聖なる儀式となった。

  • 三、イエスが弟子たちの足を洗った理由は何か?

    答:洗足は虚偽の外見のためではなく、体を洗うのと同じように、必要だからするのである。洗足は霊的必要から行う。これは救われるためにバプテスマを行うのと同様である。主が弟子たちの足を洗われた理由は次の通りである:
    1.私たちを最後まで愛し通される:「世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された」(ヨハ13:1)。これは弟子たちの足を洗われたすべての動機である。主は私たちを自分の者として、その髪の毛をも数えられ、その一すじでも失われることはない(ルカ21:18)、すなわち卑しい汚れた足をも厭わなかった。これは頭のてっぺんから足の先まですべて主に愛されたと言えよう。「だれが、キリストの愛から私たちを離れさせるのか」(ロマ8:35)。主がこんなにも私たちを愛してくださったのだから、私たちも互いに愛し合うべきである。
    2.私たちをご自身と係わりを持たせる:「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる」(ヨハ13:8)。主は弟子たちを自分の兄弟のように思い、弟子たちの足を自分の足のように思った。この密接な関係によって弟子たちの足を洗われた。そうでないと、主の体と係わりがなくなる。「頭は足にむかって、おまえはいらないと言えない」(Ⅰコリ12:21)。足は低い位置にあるが、体の基となる重要な肢体であり、全身を支える不可欠な力である。だから、「それぞれの肢体が互いにいたわり合い」、共に悩み、共に喜ぶ(Ⅰコリ12:25~26)、これこそ、共に主と「係わりを持つ」ことの真意である。
    3.私たちの全身をきれいにする:「すでにからだを洗った者は、足のほかは洗う必要がない。全身がきれいなのだから」(ヨハ13:10)。「水で洗うことにより、言葉によって、教会をきよめて聖なるものとする」(エペ5:26~27)。足は一番汚れやすい部分であり、全身が清められる妨げになりがちである。主は私たちに徹底的にきよめて、栄光ある教会として、ご自身に捧げるよう望んでいる。またサタンをすみやかに私たちの足の下に踏み砕く(Ⅰコリ15:25、ロマ16:20)ために、教会全体はきよめなければならない。だから、ひとりひとりはすべての汚れや、はなはだしい悪(ヤコ1:21)、からみつく罪(ヘブ12:1)を捨て去るべきである。教会の汚点、ねたみや争い(Ⅰコリ3:3)も主の言葉によってきよめるならば、全身がきれいになれる。弟子たちのように、裏切り者ユダのゆえに、「みんながきれいなのではない」と言われるのは遺憾なことではないか。
    4.私たちが互いに謙虚になる:「主であり、また教師であるわたしが、あなたがたの足を洗ったからには、あなたがたもまた、互に足を洗い合うべきである」(ヨハ13:14)。主は神であられるのに、自らを低くされ、しもべの形を取って死に至るまで従順であった。それならば、主の弟子である私たちは高ぶった思いをいだかず、かえって低い者たちと交わるべきではないか(ロマ12:16)。かしらになりたがって、兄弟に仕えなくても良いのか(Ⅲヨハ9)。驕り高ぶって他人を眼中に置かなくても良いのか。兄弟をいじめ、お年寄りや女性を軽視して横柄な態度がとれようか。権力をむさぼり、人を服従させることができようか。もし兄弟の愛をもって互いに慈しみ、互いに尊敬し(ロマ12:10)、互に謙遜し(Ⅰペテ5:5)、互いに仕え(Ⅰペテ4:11)、互いにゆるし合う(エペ4:32)ことができれば、「互いに足を洗う」ことの真意を理解したのである。主の模範と命令を最高の原則として、今日の教会はこれを実行すべきである。

  • 四、洗足式はいつ行われるのか?

    答:バプテスマを受けた後、聖餐式を受ける前に行う。教会の伝道者、長老、執事は主の洗足の手本にならい、バプテスマを受けて入信した信者のために足を洗い、主と係わりを持たせる。主は、「あなたがたもまた、互に足を洗い合うべきである」と言われたが、これは私たちに生活上において、お互いに足を洗い合う精神を持つようにと教えており、霊に属して互いに慈しみ、互いに愛し合い、互いにゆるし合い、祝福を受けることの追求を目的としている(ヨハ13:17)。必要に応じて、兄弟姉妹は互いに、男性は男性の足を洗い、女性は女性の足を洗ってもよい。

  • 五、今の私たちがもし洗足の真意を実行できれば、洗足式を行わなくてもよいか?

    答:洗足式は主イエスご自身が設立され、弟子たちにこれと同じように行うよう命じられた。だから、私たちは儀式としての洗足も行うべきであり、廃止してはならない。洗足の精神を実行することは重要だが、儀式を実行することによって、その精神がもっと深く実行され、祝福されるので、これを行うべきである。

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なぜ「真イエス教会」と呼ぶのですか?

私たちの礼拝する神は真の神ですから、神の教会は真の教会です。
主イエスは自らを真のぶどうの木と呼ばれました。教会は神の体ですから、真の教会と呼びます。
真の教会は真理を伝え広めます。真理とは、聖霊としるしが共に、確かであることを示した完全な福音を指します。
(参考聖句:Ⅰヨハ5:20、ヨハ15:1、5、17:3)