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水のバプテスマ

  • 一、水による洗いとは何か?

    答:バプテスマを受けることである(つまり浸すこと)。教会は主イエスを信じる人に対して「水で彼らにバプテスマを授ける」(使徒10:47)。このバプテスマは水を象徴するもので(Ⅰぺテ3:21)、神が人を主に帰させ恵みを受けさせ救いにあずからせるための重要な方法である(ロマ6:3~4、ガラ3:27)。

  • 二、バプテスマを授けるのは誰の命令か?

    答:主イエスの命令である。「あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し」(マタ28:19)。「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ。 信じてバプテスマを受ける者は救われる」(マル16:16)。主イエスは「バプテスマを行う」権限を使徒たちに託し、主イエスを信じる人々が「バプテスマを受ける」ようにされた。

  • 三、バプテスマを受けるとどんな効用があるか?

    答:「あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るため」、「あなたの罪を洗い落しなさい」(使徒2:38、22:16)。バプテスマは罪に対し重要な効用がある。バプテスマは肉体の汚れを取り除くのではなく、無垢なる良心を持って神の御前にいる事を求めるのである(Ⅰペテ3:21、ヘブ10:22)。神は「この水が象徴するバプテスマ」を人間の罪と汚れを洗い落とす泉とする(ゼカ13:1)。

  • 四、神による罪のゆるしの恵みはどんな方法で達成したか?

    答:「血を流すことなしには、罪のゆるしはあり得ない」(ヘブ9:22)。旧約時代、神の律法に従ってすべての物は血によって清められた。祭司は雄牛とやぎの血で神の前で人のために罪をあがなう。これは預表にすぎない。キリストがこの世に現れてこられた時に人の代わりに死んで流した血こそが人間の罪を取り除き永遠の罪をあがなう祭りになる(ヘブ9:12)。

  • 五、なぜ血を流して始めて罪をゆるすことが出来るか?

    答:これは神が罪をあがなう計画である。「肉の命は血にあるからである。あなたがたの魂のために祭壇の上で、あがないをするため、わたしはこれをあなたがたに与えた。血は命であるゆえに、あがなうことができるからである」(レビ17:11)。神は罪悪と戦うに至って流血に及ばなければ罪人をあがなうことは出来ないと初めから決めてある(ヘブ12:4)。ゆえに、クリスチャンはあらゆる動物の血、または絞め殺した動物の肉を食べてはいけない。なぜなら血には命があるからである(創9:4、使徒15:29)。

  • 六、なぜキリストの流された血だけが人間の罪を洗い落とすことが出来るのか?

    答:キリストは聖潔無罪だからである。また「永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は、なおさら、わたしたちの良心をきよめて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者としないであろうか」(ヘブ9:14)。使徒ペテロはキリストの血について「あなたがあがない出されたのは、きずも、しみもない小羊のようなキリストの尊い血によったのである(Ⅰペテ1:18~19)と言われた。だから私たちはキリストの聖なる契約の血を汚れたものとしてはならない(ヘブ10:29)。

  • 七、キリストの尊い血は罪を取り除くのにどんな効用があるか?

    答:
    1.罪を拭い去る:彼の血によって、私達に山の如く累積された罪が神の御前において消される(使徒3:19)。
    2.刑罰の免除:彼の血によって、私達が受けるべき罪の刑罰は撤廃され、神の怒りから救われる(ロマ5:9)。
    3.罪を清める:彼の血によって、律法に背いて犯した罪から私たちを清める(Iヨハ1:7、黙7:14)
    4.罪の法則から解放される:彼の血によって、我々は罪の権勢である律法から解放され、サタンの訴えにうち勝つ(ロマ8:2、9:32、黙12:10~11)。

  • 八、神はキリストの血をもって世の人にどんなことを成し遂げたのか?

    答:
    1.神はキリストの血をもって世の人に平和を成し遂げた(コロ1:20~23、エペ2:13~14)。
    2.神はキリストの血をもって世の人との永遠の約束の印とする(マタ26:28、ヘブ9:20、13:20)
    3.神はキリストの血をもって人々をあがない、神に帰させる(黙5:9~10、使徒20:28)。

  • 九、キリストの流した血は遥か2000年ほど前であるが、どうやって今日の私達の罪を取り除く事が出来るのか?

    答:主イエスが十字架につけられて、その一度だけ流された血が永遠に有効だと神は言う。罪を取り除く「血の能力」は全世界に満ちた。しかも、主の血の源は永遠に乾かず、涸れることがない。それは神が世の人のために開いた「罪と汚れを洗い落とす源」であり、主の宮から流れ出るものである(ヨエ3:18)。

  • 十、この「主の血の源」は何処にあるか?

    答:「バプテスマ」の中にある。バプテスマの水は人間の罪を取り除く事ができる。この水の源は主イエスの体にある。主は十字架に付けられ、ひとりの兵卒がやりでそのわきを突き刺した。すると「すぐ血と水とが流れてきた」(ヨハ19:34)。この血と水とが一緒に流れた事は偶然の出来事ではなく、また重要なことではないと思ってはならない。別の聖句では丁重に、「このイエス・キリストは水と血とをとおってこられたかたである」(Ⅰヨハ5:6)とある。然るに血はもちろん大事であるが水の役割も無視できない。「水」は神の救いにおいて重要な役割を果たしている。旧約時代、モーセは水と、子牛とやぎの血を取って民の身にふりかけた(ヘブ9:19)。これは新約時代において「水と血とをとおってこられた」ことを預表している(Ⅰヨハ5:6)。この水が主イエスの体から血と一緒に流れてきた以上、主の血と結びつけられて罪を洗う源となる(エペ5:26)。いわゆる「水で洗うことにより、言葉によって、教会をきよめて聖なるものとする」とは、教会は水で洗うことによってきよめられるということである。ノア一家が水によって救われたのと同様にこの水は私達を救うものである(Iペテ3:20~21)。水のバプテスマが人間の罪を洗うことができるのは、主の血と「共に流れ」、水の洗いに「併用」され、罪を洗う源となるからである。こればかりでなく、聖霊も水のバプテスマの中で人が再生するように働いている(ヨハ3:5~6)。ゆえにパウロ曰く:「神のあわれみによって、再生の洗いを受け、聖霊により新たにされて、わたしたちは救われたのである」(テト3:5)。

  • 十一、聖書において「血」と「水」の相互作用についてどんな証明があるか?

    答:主の血と水が共に流れ、また併用する意義として二者には相互関連の効用があると証明できる。おもに罪をゆるす原動力として主の尊い血があり、水は主の血の運用をあらわしている。もし主の血がなければ水は役に立たない。水を通さなければ血もまた明らかにならない。ゆえに、この水であらわしたバプテスマを受けたということは主の血と関わるようになったということである。聖書において、血と水が相互作用している点を以下の表にまとめた。

    血
    水(バプテスマを指す)
    1.罪がゆるされる
    ヘブ9:22、マタ26:28
    1.罪がゆるされる
    使徒2:38、22:16
    2.あがなわれる
    エペ1:7、Ⅰぺテ1:18~19
    2.救われる
    Ⅰぺテ3:21、テト3:5、マコ16:16
    3.清められる
    Ⅰヨハ1:7、黙1:5、
    7:14、ヘブ9:14
    3.清められる
    使徒22:16、エぺ5:26、Ⅰコリ6:11
    4.義とされて聖となる
    ロマ5:9、ヘブ13:12
    4.聖となって義とされる
    Ⅰコリ6:11、エぺ5:26、テト3:5,7
    5.神に親しむ
    ヘブ10:19、エペ2:13、コロ1:20
    5.神に親しむ
    ヘブ10:22、Ⅰペテ3:21
    6.人を神に帰させる
    黙5:9
    6.人を神に帰させる
    マタ28:19、ガラ3:27、ロマ6:3
    7.神の義が明らかになる
    ロマ3:25
    7.神の義を尽くす
    マタ3:15
    8.国民となる(教会)
    黙1:6、5:10、使徒20:28
    8.国民となる(教会)
    ガラ3:28~29、エぺ5:26

  • 十二、水の洗いはなぜこのような効用を果たすことが出来るのか?

    答:水は人を罪から救うことは出来ない。しかし水が神に用いられる時、不思議な効能がある事を知るべきである。神は既に罪をゆるす方法を定められた。「主イエスの御名によってバプテスマを受け、あなたがたの罪を洗い落としなさい。」人間にとって不可能なことでも「神には出来る」(ルカ18:27)。多くのキリスト教が、バプテスマは罪をゆるすことが出来るということを信じないのは「神には出来る」という信仰を確立することが出来なかったからである。ゆえに彼らは、バプテスマに罪のゆるしと救いを得させる効能があるという事を否定した。まさにナアマンが最初ヨルダン川での沐浴により、らい病が癒されることを信じなかったのと同じである。水は物質であるのに、どうやって人の罪を洗い落とすことが出来るのか(使徒22:16)。神が水を用いられる時、その水はすでに普通の水ではなくなる。いわゆる「水を使い血も使う」。水を用いる時に血も用いられる。この血は隠されている。同時に神の霊も水の中で働いている。この三つのものは一致する(Ⅰヨハ5:8)。そのほかにこの水は「真理の道」に基づいて使われている(エペ5:26)。この真理は主の御言葉である。主は弟子に「父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施しなさい」と言付けた。この名こそイエスである。「イエスを信じる者はことごとく、その名によって罪のゆるしが受けられる」(使徒10:43)。つまり、主イエスの御名によってバプテスマを受ければ罪がゆるされる。だから使徒たちはイエスキリストの名によって人にバプテスマを施す。この名は水のバプテスマにおいて欠かせない要素の一つである。
    水の要素:
     1.主の道(エぺ5:26、ヤコ1:18)。
     2.主の名(使徒22:16、10:48、19:5)。
     3.主の血(Ⅰヨハ5:6~8)。
     4.主の霊(Ⅰヨハ5:7~8、創1:2)。

  • 十三、バプテスマを受ければ必ず救われるという根拠は何処にあるか?

    答:水のバプテスマは神の救いの恵みであり、救いの方法でもある。私たちは信仰さえあれば救われると思ってはいけない。信仰を通して神の救いの方法に従い、これを守る事によって救われるのである。もしイエスが救い主であると信じるだけで彼の救いの方法に従わず、またこれを守らなければこの信仰は役に立たない。「信じてバプテスマを受けるものは救われる」という言葉には人の信仰を含み、また神の救いの方法をも指示している。信仰は救い方に従い、これを守る事によって全うされる。救いの方法も信仰に基づいた行動によって効果が現れる。バプテスマを受ければ必ず救われるという論拠はそれによって私達のために次の事を成就させるのである。
    1.バプテスマによってサタンによるやみの支配から神に帰する(使徒26:18)。私たちがやみの支配下から離れて神の国に入るとは、バプテスマを受ける時のことである。イエスが死を受けて復活される以前は「やみの支配」の時である(ルカ22:53)。主が死から復活されて言われた、「私は天においても地においても、いっさいの権限を授けられた。それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを授けなさい」(マタ28:19)。主が復活されて権力を得た後にバプテスマを設立するのには重大な意義がある。これは主が死から復活して死を支配する悪魔を破り、やみの勢力が衰えることを意味する。だから主はバプテスマを設立することによって信者が主に帰する救いの方法とされた。私たちがサタンの支配下から逃れて主の御名の下に帰する(使徒15:14)には必ずバプテスマを受けることから始めなければならない。ちょうどイスラエル人がエジプトを出て紅海を渡って救われるようである(Ⅰコリ10:1~2、詩77:19)。
    2.バプテスマを通して律法からあがなわれる「罪の力は律法である」(Ⅰコリ15:56)。罪はバプテスマによってゆるされ、律法の縛りからも解放される(ロマ7:6)。私たちは本来罪によって律法の下に管理され、律法の呪いを受けるべきであった(ガラ3:13)。しかし主イエスは血をもって人間の債務を返済され、私たちを律法の下からあがなわれて(ガラ4:4~5)、恵みの下に置かれた(ロマ6:14)。これもバプテスマを受けて、罪がゆるされたときに成就することである。
    3.バプテスマを通してキリストに帰し、彼と共に死に、共に埋葬され、共に復活する(ガラ3:27、ロマ6:3~4、コロ2:12)。これらの事はバプテスマを受ける時に成される。主と共に死すとは、主の死に帰し、罪に対して死ぬことで私達の古き人を主と共に十字架に付けさせ、罪の身体を滅ぼさせ、二度と罪の奴隷とならせない事である。なぜなら既に死んだ人は罪から離れたからである。共に埋葬するとは、死んだ古き人を水の中に埋葬することであり、主が墓に埋葬されたのと同じ事である。共に復活するとは、水の中より上がって新しく造られた人となり、新しい命が宿ることである。それはキリストが死から復活されたのと同じように、これらの事は人間の霊を指して言われており、人間の肉体とは無関係である。しかし肉体を通してバプテスマを受ける事によって、この重要な霊に属する事を成就することが出来る。

  • 十四、「主を信じるものはまず救われ、それからバプテスマを受ける。バプテスマを受ける事と救われる事とは関係がない」と言う人がいる。この話は正しいか?

    答:間違っている。主ははっきりと「信じてバプテスマを受けるものは必ず救われる」と言われた。つまり、「信仰」の上に「バプテスマ」を加えてはじめて救われる。もしバプテスマが救われる事と無関係ならば、主は「信仰」だけで足りると言ったであろう。なぜ「バプテスマ」を付け加える必要があるのか。バプテスマ受ける事は信心のあらわれである。信じなければ勿論バプテスマを受ける必要もない。信じてバプテスマを受けなければ、行いのない死んだ信仰である。「この信仰は彼を救うことが出来るか。」「信仰が行いと共に働き、その行いによって信仰が全うされる」(ヤコ2:22)。

  • 十五、ある人は主を信じてバプテスマを受けたが、バプテスマと救いには関係があると信じていない。またある教会は水による洗いを廃止した。このようなクリスチャンは聖書の教えに適っているか?

    答:聖書に適っていない。主を信じる事は主の御言葉に従い、完全なる信仰、完全なる遵守をもって行わなければならない。これはクリスチャンの真の信仰の現れである。主を信じていながら主の御言葉のうちにとどまっていないのは本当のクリスチャンではない(ヨハ8:31)。今ある教会では水のバプテスマを廃止しているが、それはキリストの教えに背く事であり、語るに値しない。ある教会では水のバプテスマがあるが、「この水はバプテスマを象徴するものであって、今やあなたがたをも救うのである」(Ⅰペテ3:21)との救い方を信じない。また、「あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい」(使徒2:38)との救いを受けない。さらに、「再生の洗いを受け、わたしたちは救われた」(テト3:5)との働きを認めない。これはバプテスマによる救いの効能を否定して、一つの儀式、一つの証に過ぎないものへと変更することになる。これは聖書に合わない重大な過ちである。バプテスマはキリストに帰して主と共に死に、共に埋葬し、共に復活する事である。バプテスマをまだ受けていないという事はキリストに帰していないという事である。主と共に死に、共に埋葬し、共に復活しなければ、救いに預かると言えるであろうか?

  • 十六、「バプテスマは人間の罪を洗い落とすことは出来ない。バプテスマとは神の御前において、人の前において、天使の前において、そして悪魔の前において、その人がイエスを信じ、その罪が信じた時に既にゆるされ、洗い清められたと証しするものである」と言う人がいる。この教えは正しいか?

    答:間違っている。バプテスマは証しするためにあるという説は人間の虚構であり、聖書において何の根拠もない。「すぐ立って、御名をとなえてバプテスマを受け、あなたの罪を洗い落しなさい」(使徒22:16)、「罪のゆるしを得るために、バプテスマを受けなさい」(使徒2:38)。これは明らかにバプテスマが罪を洗い、ゆるすことが出来ることをあらわしている。これは過去の罪を洗うことを証しするのではなく今の罪を洗うことを追い求める事である。言い換えれば私たちの罪は既に洗われゆるされた。その後バプテスマを受けて証をすることではない。例えば沐浴の目的は水の中で汚れを洗い落とす事であり、決して「沐浴自身に汚れを落とす事は出来ない。それは人の前において沐浴の前に既に洗い清められたと証する」とは言えない。ゆえにバプテスマは証をするために受けるのではなく、罪をゆるされ、生まれ変わるために受けるものである。これこそ聖書の教えに適うのである。

     

  • 十七、「バプテスマとは古き人がキリストと共に十字架につけられて死んだ。もし人が自分は既に死んだと信じなければバプテスマを受けてはいけない。古き人の死はバプテスマの前であり、バプテスマとは死んだ古き人を水に埋葬することであり、埋葬すると完了する」という人がいる。この教えは正しいか?

    答:間違いである。聖書曰く、「わたしたちはその死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたキリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである」、「もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる」(ロマ6:4,3,8)、「次の言葉は確実である。もしわたしたちが、彼と共に死んだなら、また彼と共に生きるであろう」(Ⅱテモ2:11)。これらの聖句ではバプテスマとは主と共に埋葬されるだけでなく、主と共に死に、共に復活すると明確に示している。古き人が先に死に、それからバプテスマを受けて埋葬されるのではない。バプテスマとは古き人の死を証明するのではなく、古き人をバプテスマによって主の死に帰し、同時に主と共に埋葬し、「キリストと共によみがえらされた」(コロ2:12新改訳)。つまりバプテスマ一つの洗いに三つの事が備わっていると言える。水のバプテスマが私たちを救うことが出来る(Ⅰペテ3:21)のは、彼によって私達がキリストの死、埋葬、復活と同時に関係を起こすからである。この関係があって初めて再生の救いにあずかる事が出来ると言える。バプテスマを受けることは「主に帰する」事であり、救いにあずかる事は「主に帰する」事からはじめなければならない。それはイスラエル人が海の中でモーセにつくバプテスマを受けて救いにあずかったのと同じである(Ⅰコリ10:1~2)。「信じて主に帰する人(使徒5:14、11:21)」とは「信じてバプテスマを受ける人」である。

     

  • 十八、主と共に十字架に付けられた強盗が悔い改めて主を信じ、バプテスマも受けずに救われた。これはバプテスマと救いが無関係であると言えるのではないか?

    答:強盗が十字架につけられて死ぬ前に悔い改めて主を信じ、主自ら救いあがなうと約束された。今までにこのような特別なチャンスを得た者は二人といない。しかも、そのとき主はまだ死を経て復活をしていない。新約のバプテスマはまだ定められていなかったが彼は信仰と主の特別な約束によって救われた。主が復活された後に救いの働きが完成され、主は天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。それゆえに、使徒たちに父と子と聖霊の名によって信じる人にバプテスマを施すように言付けた(マタ28:18~19)。このバプテスマは五旬節に聖霊が下ってから始まり、それによって新約の教会が生まれた(使徒2:41)。今主を信じる人で、もしバプテスマを受けられるのに受けず、却って強盗の例をもってバプテスマと救いの関係を認めないなら、それは主の教えと救いの方法を否定することになる。

  • 十九、人がバプテスマを受けて主に帰するにはどれぐらいの時間とどんな手順を経なければならないのか?

    答:聖書曰く、「多くのコリント人も、パウロの話を聞いて信じ、ぞくぞくとバプテスマを受けた」(使徒18:8)。つまり聞く、信じる、受けるという三つの事を経なければならない。まず真理の道(救いの福音)を聞き、心からイエス・キリストが神であり、同時に罪をあがなう救い主である事を信じるなら、すぐにバプテスマを受ける事が出来る(使徒8:37)。聞いて理解し、真に信じればすぐにバプテスマを受けることできる。待つ必要はない。例えば五旬節の日に福音を聞いて信じ、バプテスマを受けた者は3千人もいた。宦官は道の途中で信じてバプテスマを受けた(使徒8:36~38)。獄吏は主を信じたその夜に「その場で自分も家族も、ひとり残らずバプテスマを受けた」(使徒16:33)。「真に主を信じる」ルデヤとその家族もすぐにバプテスマを受けた(使徒16:15)。しかし信仰をより堅く、より確かなものにするためによく説教を聞き、よく聖書を勉強してからバプテスマを受けるのも妥当な事である(使徒17:11~12)。バプテスマを受けた後、引き続き主の教えを受け入れ、真理を学び、理解するのも極めて重要な事である(マタ28:20、Ⅰテモ2:4~7、ヘブ6:1)。

  • 二十、幼児はバプテスマを受けることができるか?

    答:出来る。大人は多くの罪が心に満ち、驕り、疑い、執拗、頑固、偽りなども神の救いを受け入れる妨げとなっている。大人の場合、まず切に信じて悔い改める心を持つ事でバプテスマを受け、キリストに帰することができる。しかし幼児の場合は違う。幼児は幼いゆえに謙虚、清潔、服従の心を持ち、神の救いを受ける条件を備えている。この点では大人よりもずっと良い。ゆえに主は、「天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます。これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して、幼な子にあらわしてくださいました。父よ、これはまことに、みこころにかなった事でした」(ルカ10:21)と祈られた。また使徒たちに、「心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできない」と言われた。ゆえに幼児が大人よりもバプテスマを受けるのに適しているのは、まさに神が幼児に対して「あらわされた」霊的な事なのである。

  • 二十一、幼児がバプテスマを受けるべきなのはどのような根拠が聖書にあるためなのか?

    答:
    1.幼児は生まれつきの原罪があり、成人には本罪がある。すべての罪人は主の救いを必要とする(Ⅰテモ1:15)。
    2.幼児には再生が必要である。主は「もし人が生まれ変わらなければ・・・人は水と霊から生まれなければ神の国に入る事は出来ない」と言われた。幼児も「人」である。主は幼児に対して何の例外も示していない。故に必ず「再生のバプテスマ」を受けなければならない。
    3.古代イスラエル人は生後八日目に割礼を受けて神の約束に入る。割礼はバプテスマの預表である(コロ2:11~12)。神はキリストの血をもって新約を立てた。バプテスマを受けて神の新約に入る者は老若、人種を問わない。主は使徒達に「万民」にバプテスマを施すように言付けた。この「万民」にはもちろん幼児も含まれている。
    4.幼児は大人よりも天国に入りやすいと言う約束がある。イエスは言われた、「神の国はこのような者の国である。よく聞いておくがよい、だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない」(マル10:14~15)。
    5.イスラエル人がエジプトを出て紅海を渡る事はバプテスマをうける預表であった(Ⅰコリ10:1~2)。当時幼児も一緒に紅海を渡った(出エジ10:9、12:37)。これは幼児がバプテスマを受ける証拠の一つである。

  • 二十二、幼児は主を信じる事すら知らないのにバプテスマを施しても良いのか?

    答:父母が主を信じればその子にバプテスマを施すことは出来る。カペナウムにいる役人の子供(ヨハ4:49~50)及びカナンの女の娘(マタ15:28)が病気を患い、その後癒された。これは父母の信仰によるものである。子供は主を信じることを知らない、しかし父母に信仰があればバプテスマを施すことは出来る。

  • 二十三、幼児は主を信じる事を知らないし、悔い改める事も知らないのにバプテスマを施しても良いのか?

    答:「健康な人には医者はいらない。いるのは病人である」(ルカ5:31)。幼児が病気になった時に病気が何であるかを知らないし、医者に頼る事も知らない。しかし父母はすぐにその子を連れて病院にいき、しかも治すために無理にでも薬を飲ませたり注射させたりする。たとえ子供が自分には罪がある事、また主を信じて頼る事を知らなくても救いを得させるためには必ずその子にバプテスマを受けさせ、主に帰するようにしなければならない。

  • 二十四、幼児にとってバプテスマを受ける事は本人の理解できない状況の下で行われる事である。これに効果はあるのか?

    答:受けた物が絶対に正しい物なら一時的に分からなくても良い。例えば主が使徒達の足を洗った時、使徒たちも理解出来ないでいた。それでも主に足を洗って頂いた。主は言われた、「わたしのしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるだろう」(ヨハ13:6~7)。子供のバプテスマも同じである。もし子供の受けた物が神の永遠の救いであるなら早ければ早いほど良い。「今は恵みの時、見よ、今は救いの日である」(Ⅱコリ6:2)。子供が主に受け入れられて救われ、キリストに帰する事を後回しにするなどどうして出来ようか。

  • 二十五、幼児がバプテスマを受けた後、父母としてどんな責任を果たさなければならないのか?

    答:幼児がバプテスマを受けて主に帰した後、父母は自分の篤い信仰を幼児に教えなければならない。テモテの「偽りのない信仰」はまず祖母のロイスと母のユニケの心に宿り、それからテモテの心にも宿った(Ⅱテモ1:5)。パウロが清い良心を以って神に仕えたのも先祖の教えを受け継いだからである(テモⅡ1:3)。故に父母は子供達に対して主の薫陶と訓戒とによって、彼らを育てるべきである(エペ6:4)。箴言曰く:「子をその行くべき道に従って教えよ、そうすれば年老いても、それを離れることがない」(箴22:6)。

  • 二十六、水のバプテスマはどこで行うべきか?

    答:「水のある」、「水の多い」のところ。河川、渓流、湖、海など水が流れている所である。水の流れていない死んだ水は適さない。新約におけるバプテスマは、例えばイエスがヨルダン川でバプテスマを受け、ヨハネがアイノンでバプテスマを授けた。そこには水が多くしかも流れていた(ヨハ3:22~23)。獄吏の一家がバプテスマを受けたのは家ではなく(使徒16:33)、宦官がバプテスマを受けたのは荒野である(使徒8:36,39)。これらは天然の生きた水を選んだのであって、適当に死んだ水や人工の池の中で受けるものではない。

  • 二十七、合法的なバプテスマの施し方とはどんなものか?

    答:
    1.必ず全身を水に浸す事:主イエスのバプテスマ及び宦官のバプテスマは全て水の中に浸たした。いわゆる「水から上がる」(マタ3:16、使徒8:36)が証明できる。バプテスマとは即ち古き人を主の死に帰し、また埋葬されるゆえに全身を水に浸たさなければならない。「水はわたしの頭の上にあふれ、わたしは『断ち滅ぼされた』と言いました」(哀3:54)。即ち罪のある古き人を断ち滅ぼす事である。そのあとで「水から上がる」、これはキリストと共に復活し新しき人となることである。
    2.浸す時必ず頭を下げる:主が死んだ時、「首をたれた」とある(ヨハ19:30)。この形は主と共に死んだ罪人にとって倣う必要がある(ロマ6:5)。なぜなら罪深いゆえに人間は頭を上げられず(詩40:12)、目を上げて天に向けられず(ルカ18:13)、頭を上げることができないのは、恥に満ち、悩みを見ているからだ(ヨブ10:15)。誠に心を痛めて悔い改める者が水に浸す時、「首を硬くして」神に頭を下げずにいられるのか?

  • 二十八、バプテスマを施す人はどんな人であるべきか?

    答:使徒を手本とし、バプテスマを施す時には「イエス・キリストの御名によって」と言う(使徒2:38、8:16、10:48、19:5)。「父と子と聖霊の名によって」と言うのではない。なぜならこの名はイエスだけである。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである(使徒4:12)

  • 二十九、人は何回バプテスマを受けることが出来るか?

    答:合法的なバプテスマは生涯一度しか受けられない。なぜなら主イエスが私達の為に死なれ、罪をあがなうささげ物となり、きよめられた者たちを永遠に全うされた(ヘブ10:14)のも一度だけであるからである。しかし聖書の教えに合わないバプテスマは無効であり、新たにバプテスマを受けるべきである。例えばエペソの信者はヨハネのバプテスマを受けたが、それは悔い改めるためのものであり、新約の教会のバプテスマではない。故にイエス・キリストの御名によってバプテスマを受ける必要があった。それによって彼らは主に帰して聖霊を受けた(使徒19:5~6)。これは後者のバプテスマにこそ効果があると立証している。

  • 三十、エペ4:5には「主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ」とある。バプテスマは一度しか受けられないと言う意味ではないのか?

    答:「バプテスマは一つ」とは「同一のバプテスマ」であり、一度だけと指してはいない。もちろん聖書に合う真のバプテスマは生涯一度しか受けられない。なぜならキリストは死を受け、埋葬され、復活することをただ一度だけで、永遠に至る救いを成就させたからである。私達が受けるバプテスマとはキリストと共に死に、共に埋葬され、共に復活する事であり、ただ一度だけで十分である。バプテスマが、私達の罪をゆるし、新たに生れさせたのは主イエスの死、埋葬、復活からの大功績に基づくものである。バプテスマはこの大功績を通して救いの恵みの道具、救いを得る鍵となった。故に使徒が「バプテスマ」を論ずる時には、主の「死からの復活」と同列に論じている。
    例えばペテロは言った:
    1.「イエス・キリストを死人の中からよみがえらせ、それにより、わたしたちを新たに生れさせた」(Ⅰペテ1:3)。
    2.「この水はバプテスマを象徴するものであって、今やあなたがたをも救うのである」(Ⅰペテ3:21)。
    パウロも言った:
    「わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである」(ロマ6:3~4)。「あなたがたはバプテスマを受けて彼と共に葬られ、同時に、彼を死人の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、彼と共によみがえらされたのである」(コロ2:12)。
    二人の大使徒は「バプテスマ」をキリストの「死からの復活」と結びつけ、キリストの死と埋葬を通して「バプテスマ」とは罪をゆるし、また罪の身体を滅ぼす必然的な事とした。同時にキリストの復活によって私達の霊的な「再生」を成就させた。キリストが死んでよみがえったのは神の大いなる力による福音であり、この福音は全世界に伝えられる。福音が伝えられるところにバプテスマもあり。福音は人に主を信じさせ、バプテスマは人を主に帰させ、信じて主に帰する者は救われる。これは私たちが「バプテスマ」を重視する原因である。しかし、バプテスマは救いの始まりであって救いの完成ではない。イスラエル人のように、紅海を渡った時に確かに救われたが、長く艱難な荒野の道を歩き終えて、カナンの地に入った時こそ、はじめて神の約束された美しい地を得たと言える。もし荒野の長い道のりの中において罪を犯し、神の導きに従わなければ結局は荒野で倒れてしまい、美しい地に入ることが出来ない。故に信者はバプテスマを受けて主に帰したのち、信仰を最後まで固く持ち、霊的な修行に励み、神の御旨を守れば必ず豊かに神の国に入る事が出来る。

  • 三十一、効果のないバプテスマは自分の救いと何の関係があるのか?

    答:水のバプテスマは神によって立てられた救いの方法である。この救いの方法は神が人のために作られたもので、人が作ったのではない。それゆえに、「わたしたちは、再生の洗いを受けたことによって救われたのである」(テト3:5)。神はバプテスマを通して私たちを救われた。私達はその効果を信じ、また受け入れなければならない。それによって神がバプテスマを通して私達に与える罪のゆるしと再生の恵みをいただく事が出来る。もしバプテスマにこのような効果がある事を信じないで、ただ人の儀式または証しであって、救いとは無関係であると思うなら、それはすなわちバプテスマに対して理に適った信仰を持っていないのである。つまり水でバプテスマを受けても、真理に基づいていないために、主の真理に合わないバプテスマとなり、効果がない。また他の形式でもって神の方法に取って替わろうとするならば、例えば全身を水に浸さなかったり、また滴礼を用いることは聖書に許可されたものではないから、なおさら効果はない。バプテスマの信仰と方式が神の教えと法則に合わなければ、キリストに帰する事など出来ないし、また救われる人になるはずもない。

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なぜ「真イエス教会」と呼ぶのですか?

私たちの礼拝する神は真の神ですから、神の教会は真の教会です。
主イエスは自らを真のぶどうの木と呼ばれました。教会は神の体ですから、真の教会と呼びます。
真の教会は真理を伝え広めます。真理とは、聖霊としるしが共に、確かであることを示した完全な福音を指します。
(参考聖句:Ⅰヨハ5:20、ヨハ15:1、5、17:3)