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救い

  • 一、救いとは何か?

    答:即ち、「すべての人を救う神の恵み」である(テト2:11)。救いは主にあって(ヨナ2:9)、すべての人に賜うものである。「人はみな神の救を見るであろう」(ルカ3:6)。

  • 二、救いは人間にとってどんなメリットがあるのか?

    答:消極的面において:
    1.救いは人を「暗黒」、「汚れ」、「戸惑い」の迷いから救い出す(ルカ1:79、19:10)。
    2.救いは人を「奴隷」、「押し付け」、「縛り付け」の苦しみから救い出す(ロマ6:17~18、ルカ1:74)。
    3.救いは人を「裁き」、「罪の定め」、「刑罰」の危機から救い出す(ユダ23、ロマ5:16)。
    4.救いは人を「沈み」、「滅び」、「死」の宿命から救い出す(ヤコ5:20、ヘブ9:27)。
    積極的面において:
    1.救いは人を神によって選ばれる(Ⅱテモ1:9、Ⅰペテ5:10、エペ1:18)。
    2.救いは人を神によって義とされる(ロマ3:24、テト3:7、ガラ2:21)。
    3.救いは人を神によって命を得られる(ロマ5:21、6:23、使徒11:18)。
    4.救いは人を神の栄光に預からせる(ロマ5:2、ヘブ2:9~10、ロマ8:30、Ⅰペテ5:10)。

  • 三、神はなぜ人間に救いを施すのか?

    答:救いが生まれた原因は二つある:
    (1)神が世の人を愛したためである(ヨハ3:16、Ⅰヨハ4:10,16)。
    (2)神が世の人を憐れんだためである(テト3:5、ルカ1:78)。
    神はこの二つの御旨によって、世の人に「こんなに大きな恵み」を賜ったのである。ゆえに、聖書は教える:「わたしたちを愛し、恵みをもって永遠の慰めと確かな望みとを賜わるわたしたちの父なる神」(Ⅱテサ2:16)。「わたしは自分のあわれもうとする者をあわれみ、いつくしもうとする者を、いつくしむ」(ロマ9:15)。神のすべての賜物と慈しみは、「愛」と「憐れみ」を出発点としているのである(エペ2:4)。

  • 四、救いはどのように用意されているのか?

    答:救いは神が永遠の昔に用意され(Ⅱテモ1:9)、神は、むかしは、預言者たちにより、いろいろな時に、いろいろな方法で、先祖たちに語られた(ヘブ1:1~2)。この事について、預言者たちもたずね求め、かつ、つぶさに調べた。御使たちも、うかがい見たいと願っている(Ⅰペテ1:10~12)。これは諸々の民に関係する一大事であり(ルカ1:49、2:10)、諸々の民のために備えられたものである(ルカ2:31)。

     

  • 五、救いは人にどのように示され、賜ったのか?

    答:キリスト・イエスにあってわたしたちに示され(エペ2:7)、キリスト・イエスの出現によって明らかにされたのである(Ⅱテモ1:10)。しかも、この恵みはキリスト・イエスにあってわたしたちに賜ったのである(Ⅱテモ1:9)。主イエスが誕生されたのは神の救いの確かな顕れであって(ヨハ1:14)、「わたしたちすべての者は、その満ち満ちているものの中から受けて、めぐみにめぐみを加えられた」(ヨハ1:16)。

  • 六、では、キリスト・イエスの誕生は神が人間に賜った救いなのか?

    答:その通りである。だからシメオンは幼な子イエスを見たとき、神をほめたたて言った、「主よ、今こそ、あなたはみ言葉のとおりにこの僕を安らかに去らせてくださいます、わたしの目が今あなたの救を見たのですから」(ルカ2:29~30)。

  • 七、救いと救い主とはどう違うのか?

    答:救いは一人の人につながり、その救いを賜う人が救い主である。すなわち言葉が肉体となってこの世に来られたイエス・キリストである。「救いの恵み」はこの救い主がわたしたちのために成就された働きである。この働きとは、わたしたちを救うために己を贖いとして捨てられたことである。だから、聖書は「救われたのは、実に、恵みによるのである」、「主イエスの恵みによって、われわれは救われたのだ」(使徒15:11)と教える。

  • 八、救いは御恵みによるのであれば、このほかに何か条件は必要か?

    答:「救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである」(エペ2:8)。「恵み」は主から来たものであり(ヨハ1:17)、「信仰」は人が御言を聞くことによって得られるものである(ロマ10:14,17)。信仰がなければ、救いを受け入れることはできない。信仰は人の備えるべき条件である。だから、聖書は教える:「すべては信仰によるのであって、それは恵みによるのである」(ロマ4:16)。しかし、信仰の大事さは「確信」を持つことであり(ヘブ3:14)、「信じて頼る」(使徒13:39)、「信じて従順に至る」(ロマ16:26)、「信じて従う」(ヨハ12:36)条件を備えるべきである。

  • 九、救いを受けるには、確実な信仰を持つことのほかに何が必要か?

    答:「神に対して悔い改める」(使徒20:21)、神もまたどこにいる人でもみな悔い改めなければならないと命じられた(使徒17:30)。悔い改めるとは迷いの道から戻ること(ヤコ5:20)、悪から立ち返ること(使徒3:26)である。これは主の御言を聞き、主を信じたときにあるべきあらわれである。心で教えの導きを受け入れ、自分は神に背く罪人だと認め、神に悔い改め(ルカ19:8~9)、今までの誤った考えと行いを変え、悔い改めた心と相応するならば(ルカ3:8)、救いを受けることができる。もし本当の悔い改めがなければ、主を信じたと言っても、名のみである。魔術を行うシモンのように、主の救いにあずかることもできない(使徒8:9~24)。

  • 十、なぜ神に悔い改めなければ救いを受けられないのか?

    答:
    1.悔い改めは神を敬い恐れる事である:「まことに、その救いは神を恐れる者に近い」(詩85:9)。例えば、主と共に十字架につけられた強盗は神の裁きを畏れ、悔い改めたため恵みを得られた(ルカ23:39~43)。「目の前には、神に対する恐れがない」(ロマ3:18)人は神に悔い改めず、救いを受けることもない。
    2.悔い改めは神の御前でへりくだることである:「神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜う」(Ⅰペテ5:5)。例えば、収税人は神の御前でへりくだって言った、「神様、罪人のわたしをおゆるしください」。彼は謙虚に自分の罪を認めたため、神に許されたのである(ルカ18:13~14)。悔い改めないのは「持ち物の誇り」が邪魔となって(Ⅰヨハ2:16)、「自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかった」(ロマ10:3)からである。これは救いを受けるのに一番大きな障害となっている。

  • 十一、救いの本質とは何か?

    答:救いの主な本質は二つある:
    1.罪をゆるす(ルカ1:77)。また、「罪のゆるし」とも言う(使徒5:31)。これは人類が自ら解決できない罪の問題を解決し、「わたしたちは、御子にあって、神の豊かな恵みの故に、その血によるあがない、すなわち、罪過のゆるしを受けたのである」(エペ1:7)。罪のゆるしの意義とは「罪を主に認められない」(ロマ4:8)また、「行いがなくても神に義と認められた」(ロマ4:6)、罪とされないばかりでなく、義と認められた事は「ただで義とされた」のであって、働かなくても報酬を受けたことである(ロマ4:4)。

    2.命を賜う(ヨハ10:10,28、5:40)。また、「命の恵み」とも言う(Ⅰペテ3:7)。これは人類が自ら受けられない命の問題を解決する。世の人は罪に死ぬ、これは霊と肉の死を含める。しかし、「御子を信じる者は永遠の命をもつ」(ヨハ3:36)、「死から命に移っている」(ヨハ5:24)のである。なぜなら、「恵みもまた義によって支配し、わたしたちの主イエス・キリストにより、永遠のいのちを得させるためである」(ロマ5:21)。総括すれば、救いとはただで人に罪の赦しを得させ、義とされ、永遠のいのちを得させるのである。

  • 十二、私たちが救われたのはこの二つの大いなる御恵みなのか?

    答:その通りである。これは救いの基本となる二つの恵みである。いわゆる「めぐみにめぐみを加えられる」(ヨハ1:16)とは「罪をゆるす」ことと「命を賜う」ことをさして言うものである。「わたしたちは、こんなに尊い救をなおざりにしては、どうして報いをのがれることができようか」(ヘブ2:3)

  • 十三、罪のゆるしと命の恵みは主を信じたと同時に得られるもので、実際に受ける必要はないのか?

    答:心から信じることが一番大事である。だからと言って、心で主を信じたらすぐに救いを受けたということにならない。信仰に従って救いを受けるべきである。それはちょうど、食物が命を維持するのに必要であるのと同様である。もし、ただ心の中で食物の良さと栄養を信じるだけで、それを食べないのであれば餓死してしまう。また、病人は医者を必要とするが、ただ心の中だけでその医者の高度な医術を信じ、医者の指示通りの治療を受けないのであれば、その病気を治すことはできない。主イエスは盲人にシロアムの池へ行って目を洗うように言ったが、もしその盲人が行かなければ、彼はやはり見えないままでいただろう。長血に煩っている婦人はただ心で主を信じ、主の衣に触らなければ、主の力は彼女に臨まなかったかもしれない。だから、聖書は教える:「行いによって信仰が全うされ」(ヤコ2:22)、「いま立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた」(ロマ5:2)。信仰の働きは、人に行いをもって救いを受けさせ、救いに預からせることである。心で信じても、確実に救いを受け、それに預からなければ、その信仰は死んだものであり、「そのような信仰がその人を救うことができるだろうか」(ヤコ2:14新改訳)。人に救いを得させるのは神の恵みであり、人の信仰ではない。信仰は恵みを受ける道具であり、救われるのは道具に頼るのではなく、道具によって受ける恵みである(使徒15:11)。この恵みは虚無のものではなく、「罪のゆるし」と「命を賜う」本質が伴っている。罪のゆるしと命の恵みはなんの根拠もなく人に賜うものでもない。テト3:5~7でははっきりとこう教える:「わたしたちの行った義のわざによってではなく、ただ神のあわれみによって、再生の洗いを受け、聖霊により新たにされ、わたしたちは救われたのである。この聖霊は、わたしたちの救主イエス・キリストをとおして、わたしたちの上に豊かに注がれた。これは、わたしたちが、キリストの恵みによって義とされるためである」。ここで、神がわたしたちを救ったのは、再生の洗いを「受け」、聖霊に注がれたこの二つの「恵み」によって義とされたのであるということを明らかにしている。神がこれによってわたしたちを救うならば、わたしたちもまたこれによって救われる。言い換えれば、確実に「再生の洗いを受け」、「聖霊に注がれる」事によって、罪のゆるしと命を得るに至るのである。だから、主イエスは言われる、「信じてバプテスマを受ける者は救われる」、「イエスを信じる人は御霊を受ける」(ヨハ7:39)。これは、主を信じてから確実に受けるものであり、主を信じたときに救いの手続きが完成されるのではない。五旬節の時、使徒たちは主を信じた群衆に言った、「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい」(使徒2:38)。この二つのものを受けたことによって、はじめて信じて、その恵みに預かったことになる。

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なぜ「真イエス教会」と呼ぶのですか?

私たちの礼拝する神は真の神ですから、神の教会は真の教会です。
主イエスは自らを真のぶどうの木と呼ばれました。教会は神の体ですから、真の教会と呼びます。
真の教会は真理を伝え広めます。真理とは、聖霊としるしが共に、確かであることを示した完全な福音を指します。
(参考聖句:Ⅰヨハ5:20、ヨハ15:1、5、17:3)