答:
1.神が天地万物を創造されたわざを記念する:
第七日の由来は六日間の創造のわざが成就されたことに基づくもので、人類にその始まりを記念させるためである。時を経ても、周期的に来る第七日をもって絶えず人類に天地万物の由来と創造の主宰者を忘れてはならないことを教える。神をあまり知らない人は天地万物の由来を知らないために、宇宙万物は自然にあるいは偶然にあったものと考えて、究めようとしても、はっきりとはしない。しかし、聖書は神を知る簡単な方法を教えている。即ち、被造物を通して、「明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁解の余地がない」。万物が私達の目の前にあり、それらの源、息、育成、運行、巧みさ、秩序、広大さ、繊細さについて、自然にあるいは偶然にできたという答えでは人を満足させることは当然出来ない。必ず創造主がいらっしゃるのである。私たちが宇宙万物の偉大さと巧妙さを知るほどに神の創造を認めざるを得ない。この安息日は神の創造の記念日であり(出エジ20:11)、人類に創造主の存在を啓示している。ゆえに神は言われた、「わが安息日を聖別せよ。これはわたしとあなたがたとの間のしるしとなって、主なるわたしがあなたがたの神であることを、あなたがたに知らせるためである」(エゼ20:20)。
2.神が祝福された日に祝福を得させる:
「神は第七日を祝福された」、これは小さなことではない。多くの人はこの点を軽んじている。なぜなら、神の祝福は日々あって、第七日だけに限らないからである。確かに神の祝福は日々ある。しかし「第七日の安息日」は特別に祝福された日であり、他の日とは異なる。通常、神の祝福の動機は人のために、ある人或いはある事柄が神に喜ばれ祝福されるものである。しかし一日を対象とした祝福は「安息日」だけである。この日の祝福はこの日によるのである。「第七日を聖とされた」という聖句は、第七日が来れば神は祝福するということである。七日毎に一度固定され、永遠に変わらない。かつて六日間の創造の中で、神は二度祝福された。一度目は第五日に、命ある生き物を祝福してそれらをふえさせられた(創1:22)。二度目は第六日に、人を「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」と祝福された(創1:28)。今に至るまで世界の多くの動物や人類は断えず繁殖し、人類には世界を管理する力が与えられた。これは神の祝福の結果であり、神の祝福が今も昔も空に終わったことはないことが分かる。同じように神が祝福した「第七日」も古今空に終わったことはない。第六日はこの世の祝福であり、第七日は霊の祝福である(エペ1:3)。神が第七日を祝福したのは、日にちに対してではなく、人類に安息日の祝福を得させるためである。誰でもこの日を守り、神の賜る祝福に望みを抱けば必ず得ることができる。
3.聖別されたことを知らせる:
聖書曰く:「わたしはまた彼らに安息日を与えて、わたしと彼らとの間のしるしとした。これは主なるわたしが彼らを聖別したことを、彼らに知らせるためである」(エゼ20:12)。神は第七日を祝福して、これを「聖別された」。この日を聖別されたことにより、神がこの日を重視しておられることが分かる。神は「わが安息日」と言われるが、これは神がこの日を聖とされたからである。今日まだ多くの人が、神が「聖別された」ことの重要性を理解していない。どの日でも聖とされる、或いは毎日同じである、またある人たちはこの日よりあの日が良いと思っている。これらは全て人の考えによるもので、神の定められたことではない。神の定めには力があり、第七日を聖日と定められたことは永遠に変わることはない。なぜなら神は自分に背くことはないからである。神の定めには意義もある。なぜ第一日(すなわち日曜日)を聖日と定めずに、第七日を選んで聖日と定められたのか?安息日は人のために設立されたもので、第一日は光しか造られておらず、まだ人はいなかった。第六日になって人が造られた後、この安息日は設立された。同時に神もまた休まれた。故に第七日を聖日と定められた。神は「毎日が同じである」とは見られない。人の偏見や私意は、「この日はあの日より良い」と考え、甚だしきに至っては別の日をもって神の聖日に変えたりするが、これらはみな不法である。神がすでに第七日を聖日と定められた以上、私たちは聖日と定められた第七日を守らなければならない。これに異議を唱えてはならない。神はすでに私たちに聖日を賜ったが、その御旨は神が私たちを聖別されたことを私たちに知らせることである。これはイスラエル人だけではなく、神に召された異邦人も同じようにしなければならない(イザ56:6~7)。安息日は罪のなかった聖潔な時代からすでに始まっており、また罪のない聖潔な人だけが楽しむことができる。神の御旨は、私たちがこの日を聖とされたことを知るだけではなく、私たちに聖なる国民となることを教えており、これこそ神の要求を満足させることが出来る(Ⅰペテ1:15、2:9)。
4.心身ともに休める権利を楽しむ:
人類の祖先がエデンの園で過ごした生活は聖潔で罪のないものであり、しかし働かずに遊んでいたわけではない。神は彼らをエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられ(創2:15)、また全地を治める任務も与えられた。働く責任があれば休む権利もある。神は永遠に疲れることはなく、神の安息は仕事が終わったことをあらわす。しかし人はちりで造られたのであって、安息を必要とする。人類が堕落してから、エデンの園の清く楽しい生活が保てなくなり、罪を犯したことで一生苦しみ、顔に汗して地から食物を取るようになった(創3:17)。また心に憂いや煩いの重荷を負っているので、安息の祝福と喜びを必要とする(マタ11:28~29)。これも安息日が人のために設立された役割である。故に聖書曰く:「あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る」(イザ30:15)。
5.将来大いなる安息日に入る約束に望みを抱く:
第七日の安息には預表の働きがある。神は安息日を覚えよと言われたが、それは将来もう一つの大いなる安息日を神の民に賜われるからである。ヘブル人への手紙ではこの点について、「それだから、神の安息にはいるべき約束が、まだ存続しているにかかわらず、万一にも、はいりそこなう者が、あなたがたの中から出ることがないように、注意しようではないか」(ヘブ4:1)と強調している。イスラエル人は神によって、奴隷となったエジプトから導き出され、安息の地カナンに入ったが、これは将来私たちが神の大いなる安息に入る約束を預表している。この大いなる安息の年とは、「安息日の主」の二度目の来臨の時に幕が開く。聖書曰く:「なぜなら、神の安息にはいった者は、神がみわざをやめて休まれたように、自分もわざを休んだからである。したがって、わたしたちは、この安息にはいるように努力しようではないか。そうでないと、同じような不従順の悪例にならって、落ちて行く者が出るかもしれない」(ヘブ4:10~11)。今日神の民として将来入るべき安息、すなわち神が約束された「あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われる」の最後の実現に望みを抱くべきである。