再臨
-
答:聖書には「主の日が近づいた」、「主の来る日を待つ」。この「主」は「救いの主」であり、「裁きの主」である。即ちイエス・キリストである。ここで言うのは二度目の来臨であり、後に起こる事実である。
-
答:はじめの誕生は今から約2000年前に、肉体となって、世の人の中に住み、伝道、死、復活、昇天を経て、世の人の救い主となる業を全うされた。これによって、世の人は彼を信じることで救われる。二度目の再臨は天の上から雲に乗って来られ、すべての人の目は彼を仰ぎ見、まことに創世以来一番大きな出来事になろう(黙1:7)。
-
答:イエスの再臨は世の末の日と結びついている。その時、古い世界は終わり、新しい天と新しい地が出現する。だから、新しい天地に入ろうとするクリスチャンにとって、目前にある唯一の大きな望みは、イエスの再臨である(Ⅰペテ1:13)。
-
答:主の再臨は世界と霊界に関係する一大事である。神は権力を司って王となられる。「あなたも怒りをあらわされました。そして、死人をさばき、あなたの僕なる預言者、聖徒、小さき者も、大いなる者も、すべて御名をおそれる者たちに報いを与え、また、地を滅ぼす者どもを滅ぼして下さる時がきました」(黙11:15~18)。まとめとして以下の三点が挙げられる:
1.信徒をご自分の所に迎える:主は約束して言われた:「わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。……あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである」(ヨハ14:2~3)。主の再臨の目的は明らかに私たちを迎える為である。なぜなら私たち(教会)は主と婚約した清い乙女であるからである(Ⅱコリ11:2)。その時になれば主は必ず娶りに来る(黙19:7)。霊に属する真の教会は主にとって唯一の最愛の者であり(雅6:9)、「私は夫に属し、夫も私に属す」という密接な関係にある。ゆえに主は必ず再臨され、その時、私たちは空中で主に会う(Ⅰテサ4:17)。
2.裁きを行う:イエスの再臨の時の地位は「裁きの主」である。これははじめに世に降られた時の罪人の「救い主」とはまったく異なる。なぜなら二度目の再臨は罪とは関係なく、ただ信仰に入って主を待ち望む人だけを救うからである。主を信じない罪人に対してイエスは「裁きの主」となる;その時、福音の時代は終わり、恵みの門は閉じられ、多くの人が入ろうとしても入る事は出来ない(ルカ13:24~25)。神を認識せず、主イエスの福音に聞き従わない者たちに主が報いを与えるためである。福音を信じない者たちにはどのような結末があるのか?不信仰な者と罪を犯した者たちには立っていられるのか?
3.罪の世代を終わらせる:この世界は罪悪によって破壊され、悪しき者たちの支配下にある。これらは神の創造の御旨に反しているので、終結をもってこそ、新しい天地を実現することが出来る。終結とは改造ではなく、滅ぼすのである。主が来る時、「その日には、天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けてくずれ、地とその上に造り出されたものも、みな焼きつくされるであろう」(Ⅱペテ3:10)。神はなぜ世界を滅ぼすのか?その原因は洪水で世を滅ぼしたことから解答を見出せる(創6:12~13)。主曰く:「ノアの時にあったように、人の子の時にも同様なことが起るであろう」。また「ロトの時にも同じようなことが起った。人々は食い、飲み、買い、売り、植え、建てなどしていたが、ロトがソドムから出て行った日に、天から火と硫黄とが降ってきて、彼らをことごとく滅ぼした。人の子が現れる日も、ちょうどそれと同様であろう」(ルカ17:26~30)。 -
答:主が言われる、「その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない。ただ父だけが知っておられる」。また言われる、「時期や場合は、父がご自分の権威によって定められるのであって、あなたがたの知る限りではない」(マタ24:36、使徒1:7)。主が来る日はこのように機密で、人に知らせず、神のすばらしい御旨がある。
(1)信じる人に目を覚まして、たゆまず用意をさせるため(マタ25:13)。
(2)信じない者のだましに利用されないため(テサⅡ2:2~3)。
(3)どの時代の信徒も主の再臨を待ち望み、思いが地上のことにとどまらないようにするため(ピリ3:19~21)。
神は主の来る日を人に知らせないが、「主の日が近づいている」、「さばきの主が戸口に立っている」ことをわたしたちに知らせた。今やその時はさらに近づいている。もしどの程度近づいたのかを聞くならば、主が示される兆しを察すれば分かる。だから、主のご再臨の唯一の答えは「思いがけない時」である(マタ24:44)。この時は次の事柄が含まれる:
1.人々が平安だ無事だと言っている時(Ⅰテサ5:3)。
2.人々が放縦や泥酔や世の煩いのために心が鈍っている時(ルカ21:34)。
3.人々が買い、売り、植え、建てなどしている時(ルカ17:26~30)。
4.世が最も暗く、人の心が最も暗い「夜中」のような時(マタ25:6、ロマ13:12)。
5.一般の信者が「主人の帰りが遅い」と心の中で思っている時(ルカ12:45)。
6.一般の信者の「油が乾き、灯りが消えかかる」時(マタ25:8)。
7.教会が聖霊の警告を受けながらも悔い改めない時(黙2:5,16、3:3)。
8.空前絶後の大きな患難が起き、主が選民のために期間を縮められる時(マタ24:21~22、黙7:14)。
9.御国の福音が全世界に宣べ伝えられた時(マタ24:14)。
10.真の教会-小羊の花嫁の用意ができた時(黙19:7~8、21:2)。 -
答:主の再臨の兆しを、聖書の預言に従って、各方面から観察すると、「主の日が近づいている」のは明らかであることが分かる。各方面の兆しを次のように分析する:
(一)世界における現象:
1.罪悪が満ちて人心が堕落する:主はノアの洪水の時代をもって、ご自分の再臨の時代と対照された。それは人の心が暴虐に満ちた時である。まさに今の時代も同じである。聖書曰く「終わりの時には、苦難の時代が来る。その時、人々は自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、傲慢な者、神をそしる者、親に逆らう者、恩を知らぬ者、神聖を汚す者、無情な者、融和しない者、そしる者、無節制な者、粗暴な者、善を好まない者、裏切り者、乱暴者、高言をする者、神よりも快楽を愛する者、信心深い様子をしながらその実を捨てる者となるであろう」(Ⅱテモ3:1~5)。聖書は悪に満ちた世の人々の心を二十通り描いた。これはまさに今の時代の社会現象そのものではないか。
2.私利私欲のため宝を蓄える:「あなたがたは、終りの時にいるのに、なお宝をたくわえている」(ヤコ5:3~4)。これは資本主義者が、己の富だけを築き上げるために搾取を手段として、貧しい人達の生活を顧みないことを指す。それによって労資の紛争や貧富の争いを起こした。これらは二十世紀の社会現象にもなっている。聖書ではこのような血も涙もない金持ちに苦難が臨むと警告している。なぜなら搾取された者達の叫び声が万軍の主の耳に達しているからである(ヤコ5:3~4)。
3.人類の知識が著しく増す:「あなたは終りの時までこの言葉を秘し、この書を封じておきなさい。多くの者は、あちこちと探り調べ、そして知識が増すでしょう」(ダニ12:4)。二十世紀の文明の最大の特色は、知識の増長と交通の発達である。この百何年来、人類の脳は著しく発達し、科学的発明もめざましく、人類の生活が更に心地よく、また合理化された。これは非常に喜ばしい現象である。しかし、同時に人類は様々な知識でもって災いをもたらしている。今これらの知識ある者は、命を懸けて核兵器を製造し、その技術が日増しに発達し、原子時代から宇宙時代へと進化した。人類の生存に対する脅威は日々増えている。まさに聖書に書いてあるとおりである:「人々は世界に起ろうとする事を思い、恐怖と不安で気絶するであろう」(ルカ21:26)。これらはすなわちキリストの再臨を告げる兆しである。
4.戦争:「戦争と戦争のうわさとを聞くであろう。注意していなさい、あわててはいけない。それは起らねばならないが、まだ終りではない」(マタ24:6~7);「そのころは、出る者にも入る者にも、平安がなく、大いなる騒乱が国々のすべての住民を悩ました」(歴代下15:5~6);「赤い馬が出てきた。そして、それに乗っている者は、人々が互に殺し合うようになるために、地上から平和を奪い取ることを許された」(黙6:4)。この馬は戦争を指し、「赤」は流血の意味を持ち、一種の政権の標識でもある。人類は平和を愛し、それを祈り求めるが、平和を保つ事は非常に困難である。
5.災害と飢饉:「あちこちに疫病やききんが起り」、「大地震がある」(ルカ21:11)。戦争によってもたらされた結果として、難民が増え、居場所を失くし、安らかな生活を送る事も出来ず、苦労して生産した物を十分に享受することも出来ない、それによって飢饉や疫病が起こった。このような苦しみは誰が与えたか?この他にも水害、干ばつ、風害、震災が至る所で起こった。二十世紀の地震発生回数を統計した結果、既に二千百数回の記録を破った。このような研究の霊的な原因は:「地は酔いどれのようによろめき、仮小屋のようにゆり動く。そのとがはその上に重く、ついに倒れて再び起きあがることはない」(イザ24:20)。末の世の地震は日増しに激化され、災禍を起こし、抵抗が出来なくなる。他の天災もこれと同様である。
6.イスラエル国の復興:「いちじくの木を、またすべての木を見なさい。はや芽を出せば、あなたがたはそれを見て、夏がすでに近いと、自分で気づくのである。このようにあなたがたも、これらの事が起るのを見たなら、神の国が近いのだとさとりなさい」(ルカ21:29~31)。「人の子が戸口まで近づいていると知りなさい」(マタ24:32、マル13:28~29)。ある時主イエスはいちじくの木を呪った。その時からいちじくの木は枯れ果てた。これはユダヤ国が捨てられるのをあらわしている。「すべての木」は、その他の亡国も次第に独立することを指している。「はや芽を出す」とは、イスラエルの復興のはじまりを指す。ユダヤが亡国してから二千余年(ローマ時代に滅亡してから計算した年数)、世界各地に分散され、各国でたらい回しにされ、現在でも反ユダヤ運動が起きており、復興は極めて困難に思える。しかし、聖書の預言は必ず的中する:「その日、主は再び手を伸べて、その民の残れる者をあがなわれる。主は国々のために旗をあげて、イスラエルの追いやられた者を集め、ユダの散らされた者を地の四方から集められる」(イザ11:11~12)。結果、1948年5月14日パレスチナにおいてイスラエル国は復興を遂げた。これは決して偶然ではなく、私達に聖書の預言の正確性を信じさせるためである(エレ24:5~6、31:35~36)。これもまた、主の再臨が近いことを告げる兆しの一つである。
7.天象に変化が生じる:「その時に起る患難の後、たちまち日は暗くなり、月はその光を放つことをやめ、星は空から落ち、天体は揺り動かされるであろう」(マタ24:29~31、使徒2:19~20)。「主の大いなる恐るべき日が来る前に…」(ヨエ2:31)。天象の変化についてはこれまでにも多く起こった。例えば太陽と月が正常に光らない1780年5月19日の夜(暗黒の日呼ばれた)、これはアメリカとカナダにおいて見られた。また1833年11月13日の夜、アメリカ州において流星が墜落し、その数は一万を超えた。このような史上空前の異常気象は歴史に記載され、全て真実である。しかしこれらはまだほんの一部に過ぎず、主の再臨が極めて近くなると、もっと大きな天象の変化があると私達は信じている。「もろもろの天体が揺り動かされる」、その時は非常に深刻である。主は言われた、「人の子のしるしが天にあらわれるとき」、続けて「大いなる力と栄光とをもって、人の子が雲に乗って来るのを、人々は見るであろう」(ルカ21:26)。
(二)教会における現象:
1.悪霊の誘惑:「御霊は明らかに告げて言う。後の時になると、ある人々は、惑わす霊と悪霊の教とに気をとられて、信仰から離れ去るであろう」(Ⅰテモ4:1)。悪霊は教会で人を惑わし、信仰から離れさせ、似て非なる学説に従わせる。これには真理があるように見え、自ら一派となるだけの理論を持っている。例えば「人間主義」、「存在主義」など、人を神から引き離し、神を否定させ、思いを嘘と幻に引き込む。
2.異端の流行:「あなたがたの間にも、にせ教師が現れるであろう。彼らは、滅びに至らせる異端をひそかに持ち込み、自分たちをあがなって下さった主を否定して、すみやかな滅亡を自分の身に招いている」(Ⅱペテ2:1)。にせ教師は教会の中から現れる。これは教会にとって最も深刻な問題である。異端もまた、聖書を強引に解釈し、真理の道を正しく解釈しない。異なることに好奇心を持ち、また頑固で偏見を持つ者は異端を持ち込む傾向がある。
3.キリスト教と名乗って人々を惑わす:「多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がキリストだと言って、多くの人を惑わすであろう」(マタ24:5、ルカ21:8)。これは「キリスト教」の看板を使ってキリストの純粋な真理を宣べ伝えない伝道者である。例えば主イエスへの信仰とは、個人が永遠の命を得て天国に入るのではなく、ただイエスの犠牲と博愛の精神に見習い、社会に奉仕するのみである。彼らにとってイエスとは罪をあがない、人の魂を救う救い主ではなく、社会を改造する指導者であり、人格の模範であると見ている。ゆえにイエスの神性、御言が肉体となって世に降ること、清き乙女から生まれること、十字架で流した血でもって罪を清めること、人に永遠の命を与えること等、基本的な救いや恵みを否定し、またイエスの行ったしるしを信じない。これが今日の教会において「不信派」となっている。またある者はイエスを認めているが、イエスの御言葉を守らず、心でイエスを信じれば救われると思い、すべての御言葉は空論であり、虚しいことと見ている。救いにあずかるとは御言葉を守ることではなく、信仰があれば命を得ると思っている。しかし御言葉を守ってこそ命を得るのである(ヨハ8:51)。御言葉はすなわち命であり、再生は神の言葉(Ⅰヨハ1:1、ヤコ1:18)、神の変ることのない生ける御言によるのである(Ⅰペテ1:23)。ゆえに、救いにあずかるとは主を信じるだけで、主の言葉を守る必要はないと教える教会もまた、にせ教会のひとつである(ルカ6:46)。
4.反キリストの出現:「子供たちよ。今は終りの時である。あなたがたがかねて反キリストが来ると聞いていたように、今や多くの反キリストが現れてきた。それによって今が終りの時であることを知る」(Ⅰヨハ2:18)。「父と御子とを否定する者は、反キリストである」(Ⅰヨハ2:22)。反キリストには二種類ある:一つは神とキリストを認めない者のことで、ヨハネは彼らのことを世に属す者と指摘した。もう一つは教会の中でキリストの十字架に敵対して歩いている者のことで、パウロはこのように指摘した。彼らの神はその腹、彼らの栄光はその恥、彼らの思いは地上のことである(ピリ3:18~19)。彼らはうまく立ち回る事を好み、権勢を利用し、自己の企みで権利を騙し取る。これらは教会の中でキリストの十字架に敵対して歩いている者たちである。ヤコブは言った、「不貞のやからよ。世を友とするのは、神への敵対であることを、知らないか」(ヤコ4:4~5)。「不貞」の二文字は、聖書の中で世と妥協することを指す。ゆえに今日反キリストは、父と御子を否定する無神論派の他にも、教会の中でユダのようにキリストに背く者も反キリストである。
5.あざける者が増える:ペテロとユダは、これらの人は自分の欲情のままに生活していると言った(Ⅱペテ3:3、ユダ18~19)。彼らはあざけりながら言うであろう、「主の来臨の約束はどうなったのか。先祖たちが眠りについてから、すべてのものは天地創造のはじめからそのままであって、何も変っていない」と。彼らは故意に神の定めを忘れ、主の約束を疑った。新神学派の「クリスチャン」はキリストの二度目の降臨とは将来の表面的事柄というより、むしろキリストは既に信徒の心の中に降臨されていて、永遠の命を持つ人はキリストの二度目の降臨をすでに受け入れていると言っている。彼らはイエスが雲に乗ってこられるのを信じない(黙1:7)。
6.人の心が作り話にそれる:「人々が健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、そして、真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれていく時が来るであろう」(Ⅱテモ4:3~4)。今日、教会堂の中で作り話や不純な真理を豊かな表情で滑らかに話す者がいて、私たちが聞き入れないことや見慣れないことがかえって低俗な趣味を持つ者たちに歓迎されている。真実で純粋な真理や厳しい教えについては、興味を抱かず、むしろ忌み嫌われる。このような傾向も末の日の教会に起こる現象の一つである。
(三)霊における現象:
1.後の雨の聖霊が下る:「シオンの子らよ、あなたがたの神、主によって喜び楽しめ。主はあなたがたを義とするために秋の雨を賜い、またあなたがたのために豊かに雨を降らせ、前のように、秋の雨と春の雨とを降らせられる」。「これらは主の大いなる恐るべき日が来る前に」(ヨエ2:23,28~32)。五旬節は秋の雨の聖霊で、今は春の雨の聖霊である(ゼカ10:1)。聖書曰く:「前の雨と後の雨があるまで…主の来臨が近づいているから、耐え忍びなさい。心を強くしていなさい」(ヤコ5:7~8)。秋の雨の聖霊は種をまき、春の雨の聖霊は収穫をあらわす。時期こそ違うが、雨は全て同じである。ゆえに今聖霊を受けるときは、必ず「前のよう」でなければならない。「雲の上に座している者は、そのかまを地に投げ入れた。すると、地のものが刈り取られた」(黙14:16)。かまは即ち「真理」を表し、聖霊-春の雨と合わさって収穫の仕事を成し遂げる。続けて、「また、箕を手に持って、打ち場の麦をふるい分け、麦は倉に納め、からは消えない火で焼き捨てるであろう」とある(マタ3:12)。
2.福音が広く伝えられる:「この御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである」(マタ24:14)。福音を伝える手段は二つある:一つは伝道者が各地で福音を伝え、人々を主に帰するよう導くこと、もう一つは聖書の流行ならびに、書籍と新聞を用いて伝え、人々に主を信じるよう勧めることである。二つとも重要な手段であり、収穫の主に願って、その収穫のために働き人を送り出すようにしてもらう(マタ9:38)。なぜなら収穫は多いが働き人が少ないからであり、これは今日の教会にとって深刻な問題である。信徒はこのことについて主に祈るべきであり、また働き人を助けて前に進ませるべきである。なぜなら彼らは御名のために旅立った者であって、異邦人からは何も受けていない。それだから、わたしたちは、真理のための同労者となるように、こういう人々を助けねばならない(Ⅲヨハ6~8)。「福音を伝える」原則は「すべての民に対してあかしをする」ことで、その目的は誰でも福音の救いを得ることに望みを持つことである。ゆえに必ず、「全世界に行き、すべての民に福音を伝える」。「行く」ことは一つの方法であって、あるいは、まず新聞や書籍を速やかに伝え、遠くまで届かせる。それから働き人を送って、協力して収穫する。なぜなら「永遠の福音」は、「地に住む者、すなわち、あらゆる国民、部族、国語、民族に宣べ伝えるために、たずさえてきた」からである(黙14:6)。これはなんと難しいことか。クリスチャンは力を合わせて努めなければならない。神は誰もが悔い改めて救われる事を願っておられる。ゆえに全ての人に福音を聞くことと、伝道の書物を読む機会を与えられる。もし私達が口で話さず、ペンで書かなかったら、彼らは理解することなど出来ない(ロマ10:14)。これはすなわち、福音に対して借りがあるということである。もし私達が彼らに福音を伝え、彼らに聞かせ、彼らも「確かに聞いた」ならば、たとえ「人が福音に聞き従わない」ことになっても、私たちは「彼らに証しする」責任を果たしたのだから、無駄に終わることはない。今、神は世の人をゆるして、別に遅らせているわけではない。なぜならまだ多くの人が救いの福音を聞いておらず、聞いてもまだ信じていないからである。この福音が全ての人に証し終えた時、主の日は盗人のように襲ってくる(Ⅱペテ3:10)。
3.花嫁の用意が整う:「小羊の婚姻の時がきて、花嫁はその用意をしたからである」。「また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た」(黙19:7、21:2)。花嫁とはキリストの総体性である真イエス教会であり、小羊の妻である。この花嫁は昔から今に至るまで一人だけであり、使徒時代からキリストの許婚である。神によって着飾られ、その装飾品は光の父から下って来たあらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物である(ヤコ1:16)。聖霊のバプテスマ、再生のバプテスマ、恵みの安息日、主の聖餐、主にあずかる洗足式、神のしるし、聖霊の実、聖霊の印、聖霊の質、聖霊の徳などすべてがととのっている。これらは全て神の装飾であり、そして髪に着飾られた者こそキリストにかなう者である(雅4:7)。ゆえに霊に属する真の教会は世界の装飾品を必要としない(Ⅰコリ1:16~29、ガラ2:6、ルカ16:15)。ある者は今日の真の教会には不完全な所が多いと思っているが、それは一部の人や物事の問題だけである(Ⅰコリ1:1,3)。神が教会を着飾ることと何の関係もない。しかし花嫁自身の用意が必要であり、「しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいない」までに達し(エペ5:27)、聖潔となり、傷もなく、夫を待つべきである。 -
答:聖書には、「その日が、盗人のようにあなたがたを不意に襲う。だから、目をさまして慎んでいよう」と書いてある(Ⅰテサ5:4~6)。これは「その日」は盗人のように臨み、人には予測できず、また、主がこられる時の世界は夜のように暗黒であることも指している。ある人は主が盗人のように来るなら、密かにこられ、人は見られないと考えている。これは間違いである。主の「来る」日が秘密であって、「こられた」時には公になり、全ての目が見、彼を刺した人も見る。地上の万族は彼のゆえに泣き、その威厳は恐れるべきものである。しかし、救われる真の聖徒は、死んだ者が先によみがえり、生き残っている者も変えられる。彼らは共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会う(Ⅰコリ15:52、Ⅰテサ4:16~17)。
主が現れる時の情景はおよそ次の通り:
1.主がすべての御使たちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につく(マタ25:31、16:27、ユダ14)。
2.炎の中で天から現れ(Ⅱテサ1:7)、天の雲に乗ってこられる(マタ24:30)。
3.合図の声と神のラッパの鳴り響く声がある(Ⅰテサ4:16、Ⅰコリ15:52)。大いなるるラッパの音をもって、四方からその選民を呼び集める(マタ24:31、マル13:27)。
4.主イエスは口の息と来臨の輝きをもって不法の者を滅ぼす(Ⅱテサ2:8)。
5.墓の中にいる者たちがみな神の子の声を聞くと出てくる(ヨハ5:28)。海も黄泉も、さばきを受けるためにその中の死人を出す(黙20:13)。 -
答:主がまだこの世におられる時に、弟子たちに目を覚まし、たゆまず用意しなさいと何度も命じられた。なぜなら、この日は非常に大事な日であるからである。今の時をつかみ、自分のために霊の修業を積むべきである。それは、主が現れる時に、確信を持ち、御前に恥じいることがなく(Ⅰヨハ2:28)、喜んで(Ⅰペテ4:13)、主の御前に立ち(Ⅰテサ2:19)、天にある御国に救い入れていただくためである(Ⅱテモ4:18)。主の再臨のために、用意すべき要点は次の通り:
1.目をさまして油を用意する(マタ25:1~10):油は聖霊であり、光と力を発するエネルギーの源である。
2.衣をきよめる(黙19:8、16:15):衣は正しい行いを指す。また礼服も指す(マタ22:11~13)。
3.忠実に働く(マタ24:45~46):主の僕として、教会において主のために忠実に働き、主のために己を捨て、世の名利をむさぼらない。
4.闇を捨て、光に入る(ロマ13:12~14):行いが公平で正しいことを指す。
5.互いに愛し合う(Ⅰペテ4:7~9):「互いに不平を言い合ってはならない」(ヤコ5:9)。
6.もっと主を愛する(Ⅰコリ16:22):「不法がはびこり、愛が冷める」(マタ24:12)ことがないよう慎むべきである。
7.堂々と主を認める(ルカ9:26、12:9):「からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな」(マタ10:28)。
8.集会をやめない(ヘブ10:25):「かの日が近づいているのを見て、ますます、そうしようではないか」。
9.寛容を示す(ピリ4:5):「この世の有様は過ぎ去るからである」(Ⅰコリ7:31)。
10.持っているものを堅く守る(黙3:11、2:25):守るべきものは、主の言葉(Ⅱテモ1:13,14)、主の御名(黙2:13)、全くかつ正しいこと(ヨブ2:3)、善良(Ⅰテサ5:21)、真の命(Ⅰテモ6:19)である。
11.主の御旨を行う(ヘブ10:36~37):「愚かな者にならないで、主の御旨がなんであるかを悟りなさい」(エペ5:17)。
12.忍耐して待ち望む(ヤコ5:7、ロマ8:25):「あなたがたは耐え忍ぶことによって、自分の魂をかち取るのである」(ルカ21:19)。「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」(マタ24:13)。「これらのことをあかしするかたが仰せられる、『しかり、わたしはすぐに来る』。アァメン、主イエスよ、きたりませ」(黙22:20)。