答:
1.神の霊によるべき(マタ12:28):主イエスと使徒たちが世で病をいやし、悪霊を追い出したのは神の霊によるものであった。神は聖霊を限りなく主イエスに賜ったからである(ヨハ3:34)。「神はナザレのイエスに聖霊と力とを注がれた」ため、悪魔にとりつかれた人をいやすことができた(使徒10:38)。使徒たちは上からの力-聖霊を待ち望んでいたため、しるしが伴い、主のために証しすることができたのである。だから、「しるしを行う」ことと「病をいやす」ことは真の教会が備えるべき聖霊の賜物の一つである(Ⅰコリ12:9)。
2.大いなる信仰を持つべき(マタ17:20):弟子たちがてんかんの悪霊を追い出せなかった時に、イエスは言われた、「あなたがたの信仰が足りないからである」、「もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この山に向かって『ここからあそこに移れ』と言えば、移るであろう。このように、あなたがたにできない事は、何もないであろう」。だから、病をいやし、悪霊を追い出すしるしには、信仰が非常に重要であることが分かる。主が弟子たちに力を与え、その力で悪霊を追い出したこともあったのに、なぜこの時はできなかったのか。それは信仰心の問題である。弟子たちに信仰心がないのではなく、足りなかったため、このような特殊な悪霊と病に対して無力であった。しかも、その悪霊にとりつかれた子の父の信仰はもっと足りなかったのである(マル9:24)。彼は主イエスに言った、「しかしできますれば、わたしどもをあわれんでお助けください」。(マル9:22)。「できますれば」と言ったのは彼の信仰の足りなさのあらわれである。主イエスに対してでさえ、「できますれば」程度の信仰で求めたのであるから、弟子たちの力はもっと軽視していたであろう。この疑いの毒素が信仰の大部分を侵蝕してしまったのである。だから「信仰の足りない者」、「信仰の薄い者」となり、悪霊を追い出せなかったのである。十分な信仰を持ち、神の力をいただくと、病はいやされるのである(マル5:28~29)。パウロが生まれながらに足の萎えた人を歩かせたのも、「彼をじっと見て、いやされるほどの信仰が彼にあるのを認めた」からである(使徒14:9~10)。教会の伝道者は、病をいやしてほしい人の信仰を見極め、適宜の助けを持って、神に力をあらわす機会を残すべきである。もし教会が神に頼って病をいやし、悪霊を追い出す信仰を失ったならば、あるいはある特定の賜物を重視しすぎて、病をいやす賜物を熱心に追い求めなければ、病をいやし、悪霊を追い出す霊の働きはだんだんと消えていくことであろう。
3.切に祈るべき:祈りと信仰は互いに働き、祈りは信仰を強める。聖書は教える、「あなたがたの中に、病んでいる者があるか。その人は、教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリブ油を注いで祈ってもらうがよい。信仰による祈は、病んでいる人を救い、そして、主はその人を立ちあがらせて下さる。かつ、その人が罪を犯していたなら、それもゆるされる」(ヤコ5:14~15)。祈りを持って病気をいやすことは聖書が教会に授ける力であり、信者にとって、あるべき信仰生活でもある。しかし、聖書は祈れば病気が治るとは言わない。信仰による祈りは主にいやされる可能性があると教えている。教会はこのような信仰あるいは賜物を備えるべきである。それによって信者たちに同じ信仰を持たせ、病人のために切に祈るように教える。いわゆる「いやされるようにお互いに祈る」ことは、わたしたちの教会で数多く証しされている。祈りは悪霊を追い出し、病気をいやすのに直接的な効果をあらわす、消してはならない聖霊の働きである。