世の人
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答:人は動物から進化したのではなく、神は初めにご自分のかたちにかたどって造られたのである(創1:26)。人は神に祝福され、全地を管理し、あらゆる種類の獣、鳥、這うもの、海の生き物を制する知恵を与えられた(ヤコ3:7)。だから、人は「万物の霊長」と自称した。
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答:神は地上の土のちりで人を造り、「主なる神は野のすべての獣と、空のすべての鳥とを土で造った」(創2:19)本質と同じである。しかし、人には一番大きな違いがあった。即ち、神は「命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった」(創2:7)。この息は人に神の「霊の命」を得させた。これは動物にないものである。だから、人は肉体だけでなく、中には「霊」(ゼカ12:1、ヨブ32:8,18、Ⅰコリ2:11)、「魂」もある(Ⅰテサ5:23;ヘブ4:12)。
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答:霊魂は目に見えないが、体よりも大事で、尊い存在である。霊魂のない体は死んだものである。イエスは言われる、「からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい」(マタ10:28)。だから、「わたしたちは、目に見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである」(Ⅱコリ4:18)。ゆえに、霊魂は永遠のものである
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答:霊魂が体を離れると、体は死んだものとなる(ヤコ2:26)。「彼女は死にのぞみ、魂の去ろうとする時」(創35:18)。死後の死体は何の知覚もなく土に帰り、日の下に行われるすべての事に、永久にかかわることがない(伝9:5~6)。しかし、霊魂はからだの死によって滅びることなく、「永遠の家に帰る」(伝12:5~7)。悔い改めて主イエスを信じ、救われる人は死後、魂は天使に連れられて、神のパラダイスに行き(ルカ16:22、23:43)、主を信じない罪人の魂は「苦しいところ」、即ち、黄泉に下る(ルカ16:23~28)。将来、体と魂は地獄に投げ込まれる(マル9:44)。
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答:霊魂は体の死によって消滅するわけではないので、知覚はあるのだ。次のように引証する:
1.ラザロは死後、天使に連れられたのは死体ではなく、魂であり、「慰められる」(ルカ16:25)知覚がある。
2.金持ちは死後、黄泉で「苦しむ」(ルカ16:23~24)知覚があり、「生前よいものを受けた」記憶と、自分に五人の兄弟がいて「こんな苦しいところ」へ来ることがないように悔い改めてほしいと望んだ(ルカ16:28)。黄泉ガ苦しいところであると言ったのは知覚のある証明である。
3.「地のもろもろの支配者たちの亡霊」は黄泉で「起こされる」知覚があり、発言することができる(イザ14:9~10)。これらの人は世にいたときは支配者であったが、死後、黄泉にいる「亡霊」は弱くなった。「亡霊は水およびその中に住むものの下に震う」(ヨブ26:5)。ゆえに、人の死後、亡霊の存在と知覚があるのだ(箴9:18、21:16)。
4.神の言葉とその証を立てたゆえに殺された「霊魂」が大声で叫んで言った、「聖なる、まことなる主よ、いつまであなたは、さばくことをなさらず、また地に住む者に対して、わたしたちの血の報復をなさらないのですか」(黙6:10)。
5.霊魂は肉体を離れてから、「主と共に住む」(Ⅱコリ5:8)。「あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」(ルカ23:43)。だから、パウロは世を離れて、主と共にいることは自分にとってはるかに望ましいと言った(ピリ1:23)。 -
答:「死」は三つの意義、即ち三種類の死がひとりの身において、三つの悲劇を起こす可能性がある。
1.肉体の死:霊魂が体から離れる、即ち、「息絶えて死ぬ」(創35:29)ことである。「神がもしその霊をご自分に取りもどし、その息をご自分に取り集められるならば、すべての肉は共に滅び、人はちりに帰るであろう」(ヨブ34:14~15)。「その息が出ていけば彼は土に帰る。その日には彼のもろもろの計画は滅びる」(詩146:4)。というのは、神は「地上の民に息を与え、その中を歩む者に霊を与えられる」(イザ42:5)からである。神がもしその霊と息を取り戻すならば、人は死ぬのである。神は言われる、「あなたの魂は今夜のうちにも取り去られるであろう。そしたら、あなたが用意した物は、だれのものになるのか」(ルカ12:20)。この死は世の人には珍しくない、関心を持ち、恐れている死である。
2.霊魂の死:神のいのちから遠く離れ(エペ4:18)、生けるしかばねにすぎない(ルカ9:60、Ⅰテモ5:6)、この死は人類の祖先の時から始まった。神はアダムに言われた、「それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。アダムは食べてはならない善悪を知る木の実を食べたとき、肉体は死んでいない、しかも九百才まで生きた。しかし、内なる霊の命はその日に死んだのである。これは「自分の罪過によって死んだ」(エペ2:1~5)、「罪の内に死んだ」(ヨハ8:24)のである。この死は肉体の死よりも恐ろしい。人類がサタンに誘惑された致命傷である。肉体が呪われて死ぬばかりでなく、魂ももっと恐ろしい永遠の死に陥ったのである。
3.永遠の死:永遠に神から隔離された。聖書はこの死を次のように解釈する:「その時、主は神を認めない者たちや、わたしたちの主イエスの福音に聞き従わない者たちに報復し、そして、彼らは主のみ顔とその力の栄光から退けられて、永遠の滅びに至る刑罰を受けるであろう」(Ⅱテサ1:8~9)。これは火の池に投げ込まれて、永遠の苦しみを受ける第二の死である(黙21:8、20:10)。即ち、悪魔とその使たちとのために用意されている永遠の火に入る(マタ25:41)。永遠の火とは「永遠の刑罰」であり(マタ25:46)、「そこは、うじがつきず、火も消えることがない」(マル9:48)。この死は無に消滅されるのではなく、魂とからだが永遠の刑罰に陥り、苦しみを受けることである。いわゆる「生ける神のみ手のうちに落ちるのは、恐ろしいことである」(ヘブ10:31)。 -
答:聖書には「罪の支払う報酬は死である」(ロマ6:23)と言っている。人類は造られた後、聖なる神に従い、円満な生活を満喫すべきであった。しかし、神に背き、初めから罪を犯したサタン(悪)に習い、罪を犯し、その奴隷となって、罪の報酬を受けた。これは必然的な結果である。だから、死は世の人に臨んだ:
1.死の原因:「ひとりの人の不従順によって、多くの人が罪人とされた」(ロマ5:19)。
2.死の拡張:「こうして、死が全人類に入り込んだ」(ロマ5:12)。
3.死の支配:「ひとりの人の罪によって、死が支配者となった」(ロマ5:14)。
4.死の普及:「アダムにあってすべての人が死んでいる」(Ⅰコリ15:22)。
5.死の定め:「一度だけ死ぬことが人間に定まっている」(ヘブ9:27)。
6.死の宿命:「死も黄泉も火の池に投げ込まれた」(黙20:14)。 -
答:罪が世に入り込み、無敵の攻勢をもって世の人を攻撃しており、それから逃れる人はひとりもいない。だから、世の人は「罪人」とも呼ばれ、これは神が定められたふさわしい呼称である(ロマ4:5)。神は天から見下ろし、善を行い、罪を犯さない正しい人は世にいない(伝7:20、詩130:3、ロマ3:10~11)と言われた。世の人は行いによって「善人」、「賢人」と自称するが、その正しい行いは、ことごとく汚れた衣のようで(イザ64:6)、正しい道から迷い出て(ロマ3:12)、神の標準で量れば、罪のない人はひとりもいない(Ⅰヨハ1:8)。
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答:罪の力は死のとげのように(Ⅰコリ15:56)、病のように(ルカ5:31~32)、重荷のように(マタ11:28)ひとりひとりを死に至らせた。罪の性質は次のように分析できる:
1.原罪:人類の祖先が残した原罪は生まれながらに持っている:「わたしは不義のなかに生まれました。わたしの母は罪のうちにわたしをみごもりました」(詩51:5)。
2.罪性:罪を犯す習性:「人が心に思い図ることは、幼い時から悪い」(創8:21)。「心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている」(エレ17:9)。「悪しき者は胎を出た時から、そむき去り、生まれ出た時から、あやまちを犯し、偽りを語る」(詩58:3)。「神は人を正しい者に造られたけれども、人は多くの計略を考え出した」(伝7:29)。
3.罪行:「なすべからざる事をなすに任せられた。すなわち、彼らは、あらゆる不義と悪と貪欲と悪意とにあふれ、ねたみと殺意と争いと詐欺と悪念とに満ち、また、ざん言する者、そしる者、神を憎む者、不遜な者、傲慢な者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者となり、無知、不誠実、無情、無慈悲な者となっている。彼らは、こうした事を行う者どもが死に価するという神の定めをよく知りながら、自らそれを行うばかりでなく、それを行う者どもを是認さえしている。」(ロマ1:28~32)。「肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままに行う」(エペ2:3)。
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答:原罪は遺伝で受け継ぎ、罪行は天然の習慣であり、自分の嗜好である。三つの鎖から自分を救うことはできないし、変えられない。「エチオピヤ人はその皮膚を変えることができようか。ひょうはその斑点を変えることができようか。もしそれができるならば、悪になれたあなたがたも、善を行うことができる」(エレ13:23)。
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答:人の良知は道徳を高め、社会環境を改善させ、美しい世界を実現させようと望んでいる。しかし、これはむなしい希望である。というのは、人の良知は昔から罪悪に抵抗する力をなくしていた。「善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲しない悪は、これを行っている。もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である」(ロマ7:18~20)。だから、この世を人為的な方法で改善させ、罪を滅ぼすことはできない。
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答:神は人を造り、これをよしとされた(創1:31)。神はご自分のかたちにかたどって人を造り、聖なる命と生活を賜ったと同時に、人に自由の意志と選択の権利をも与え、自分の行いに責任を持たせられた。機械と違って、人には良心があり、従うべきものと拒むべきものを知っている。神は人の自由意志を尊重され、強制手段を取らず、ただ御告げを与えられ(ミカ6:8)、人に心から神に従い、神と共に歩むように望まれた。だから、神ははっきりと人に「してよいこと」と「してはいけないこと」とを告げられた(創2:16~17)。神は人が神のよしとされたことをし、してはならないことを拒むことを望み、そして、してはならないことをしてしまった結果も明示された。しかし、人類はしてはならないことを選び、自分に悪の結果をもたらした。だから、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなった(ロマ3:23)。
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答:人類が造られる前に、宇宙には「悪」がすでに存在していた。それはサタンであり、彼は高ぶって神に反抗し、天から落ちてしまった天使であり(イザ14:12)、「全世界を惑わす」力を持っている。神は始祖アダムに悪者の存在と試みを知ってもらい、神の命令を守り、善に従って、悪に抵抗するために善悪を知る木を園の中に置いた。しかし、サタンは最も狡猾な蛇を利用し、女を惑わした(Ⅰテモ2:14)。女は惑わされて、男も一緒に過ちを犯した。この時から人類は悪に傾き、罪に陥った。その結果、自分の栄光を破壊し、霊の命の生活を滅ぼし、罪を世に持ち込んだ。だから、人類が罪を犯したのは神の御言葉に従わず、自由意志を誤用したと同時に、悪者によって人類が誘惑され(Ⅱコリ11:3)、神の御言葉を疑い、悪者の嘘を信じさせられたことも、もう一つの原因である。
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答:神が定められた戒めの中に、「行うべきこと」と「行ってはならないこと」がある。この律法に背いたならば、罪を犯したことになる(Ⅰヨハ3:4)。律法によって罪の自覚が生じるばかりでなく、また律法によって罪を定める(ロマ3:20、7:7)。「それは、すべての口がふさがれ、全世界が神のさばきに服するためである」(ロマ4:19)。
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答:
1.神を信じない罪:「すべて信仰によらないことは、罪である」(ロマ14:23)。「神を信じない者は、神を偽り者とする」(Ⅰヨハ5:10)。「信じない者は、すでにさばかれている」(ヨハ3:18)。「御子に従わない者は、…神の怒りはその上にとどまるのである」(ヨハ3:36)。
2.光を愛さない罪:光は善である、「そのさばきというのは、光よりもやみを愛したことである」(ヨハ3:19)。「光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった」(ヨハ1:5)。「すべての人を照らすまことの光があって、世にきた」(ヨハ1:9)。 -
答:
1.神から遠く離れる:「わたしたち…神から遠く離れていた」:「彼らの知力は暗くなり、その内なる無知と心の硬化とにより、神のいのちから遠く離れた」(エペ2:13、4:18)。
2.神に敵対する:「主とその油を注がれた者とに逆らおうとはかる」(詩2:2)。「父と御子とを否定する者は、反キリストである」(Ⅰヨハ2:22)。「悪い行いをして、心の中で神に敵対している」(コロ1:21)。
3.神を試みる:「彼らはいと高き神を試み、背いた」(詩78:56)。「イエスは彼らの悪意を知って言われた、『偽善者たちよ、なぜわたしをためそうとするのか』」(マタ22:18)。
4.神をそしる:「わたしは以前、神をそしる者であった」(テモⅠ1:13)。「口を開いて神を汚し、神の御名と、その幕屋、すなわち、天に住む者たちとを汚した」(黙13:6)。
5.神を忘れる:「悪しき者は、神を忘れる諸々の国民である」(詩9:17)。 -
答:
1.自分の道に向かって行く:「われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った」(イザ53:6)。2.光を憎み、闇を愛する:「人々はそのおこないが悪いために、光よりもやみの方を愛し、悪を行っている者はみな光を憎む。光にこようとしない」(ヨハ3:19~20)。
3.情欲の奴隷になる:「わたしたちも以前には、無分別で、不従順な、迷っていた者であって、さまざまの情欲と快楽との奴隷になる」(テト3:3)。
4.世のならわしに従う:「かつてはそれらの中で、この世のならわしに従う」(エペ2:2)。「世を友とするのは、神への敵対である」(ヤコ4:4)。
5.希望がない:「この世の中で希望もなく神もない」(エペ2:12)。「わたしたちは飲み食いしようではないか。あすもわからぬいのちなのだ」(Ⅰコリ15:32)。
6.死を恐れ、その奴隷となる:「死の恐怖のために一生涯、奴隷となっている」(ヘブ2:15):「すべて罪を犯す者は罪の奴隷である」(ヨハ8:34)。「悪しき者の配下にある」(Ⅰヨハ5:19)。
7.裁きを待つ:「死んだ後さばきを受ける」(ヘブ9:27)。
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答:自分は神の御前において「罪人」(ルカ5:8)、神に敵対する「仇敵」(コロ1:21、ロマ5:10、8:7)、段々と悪くなる「古き人」(エペ4:22)、しかも神の命と隔離された「死人」(ルカ9:60;エペ2:5)であると覚悟する。この認識があれば、自分がいかに神の憐れみと救いを必要とするかが分かってくる。
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答:
1.「罪人」には罪の赦しが必要:「神を信じる信仰によって罪の赦しを得る」(使徒26:18)。2.「仇敵」には和解が必要:「わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている」(ロマ5:1)。
3.「古き人」には更新が必要:「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去り、すべてが新しくなったのである」(Ⅱコリ5:17)。
4.「死人」には命が必要:「あなたがたがイエスを信じて、イエスの名によって命を得る」(ヨハ20:31)。
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答:不可能である。世の人は「罪の下に売られている」(ロマ7:14)からである。罪の下に売られてから、全世界は悪者の下にあり、永遠に自力で起きあがることはできない、「人はだれも自分をあがなうことはできない」(詩49:7)。幸いにも、神は世の人を愛し、ひとりも滅びることがないために、「主はわたしを滅びの穴から、泥の沼から引きあげて、わたしの足を岩の上におき、わたしの歩みをたしかにされた」(詩40:2)。だから、救いは自分から出るものではなく、神が賜るものである。救いの基本意義は:
1.「罪から救う」(マタ1:21)。
2.「きたるべき怒りから救い出す」(Ⅰテサ1:10)。
3.「天にある御国に救い入れる」(Ⅱテモ4:18)。 -
答:人生の価値はイエス・キリストにあって、価のつけられない宝となる。人は肉体のほかに、霊魂もあるからである。主イエスが言われる、「たとい人が全世界をもうけても、自分の命(たましい)を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命(たましい)を買いもどすことができようか」(マタ16:26)。だから、人生の目的は生きている間の一時的な肉体の楽しみだけでなく、将来、魂が永遠に救われる事がもっと大事である。神は自らわたしたちに永遠の命を約束されたからである(Ⅰヨハ2:25)。全世界ないし全宇宙の中で、「永遠の命」より貴重なものがあろうか。だから、聖書は、「日の下で人が行うすべてのわざがみな空である」、「空の空、空の空、いっさいは空である」。昔の英雄は今どこにいるか。ダビデ王も言った、「人は、そのよわいは草のごとく、その栄えは野の花にひとしい。風がその上を過ぎるとうせて跡もなく、その場所にきいても、もはやそれを知らない」(詩103:15~16)。「まことに人は影のように、さまよいます。まことに彼らはむなしい事のために騒ぎまわるのです」(詩39:6)。これは死の支配を越えられないからである。だから、神に悔い改め、イエスを信じれば、罪と死から解放され、「滅びないで、永遠の命を得る」(ヨハ3:16)、これは人生における最高の目的であり価値である。