イエス
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答:イエスは神であり、初めの命の言葉である。言葉は神と共におり、言葉は神である(ヨハ1:1)。この言葉が肉体となり、人として世に誕生された。だから「人の子」と自称し(マタ16:13)、神の愛する子(マタ3:17)でもある。「御子は、見えない神のかたちであって、すべて造られたものに先だって生まれたかたである。万物はみな御子にあって造られ、御子のために造られたのである」(コロ1:15~17)。だから、イエス・キリストは世界の人類を救うために誕生された救い主である(ルカ2:11~12)。
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答:神と共におられる(ヨハ1:1、14:9~10)、神と等しい(ヨハ5:18、10:30)、 神と同じ権威を持つ(ヨハ5:27、マタ28:18)、神と同じ栄光を持つ(ヨハ17:5)、
神と同様に敬われる(ヨハ5:23)、神と共に働く(ヨハ5:17,19)、神と同じ呼び名を持つ(Ⅱペテ1:1、テト2:13)、神と共に生きる(黙1:17~18、ヨハ6:57)、神と同じ聖なるかたである(ルカ1:35、黙15:4、Ⅰペテ3:15)。 -
答:神は肉体において現れ、人として私たちの中に住んだ。「神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである」(ヨハ1:18)。イエスがこの世に誕生された目的は罪人を救い、神の愛をあらわし(Ⅰテモ1:5、Ⅰヨハ4:9~10)、世の人々はイエスを信じることによって救われるためである(使徒16:30~31)。
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答:世の人は罪のため神と隔てられた。イエスがこの世に来られ、神と人との仲介者と成らせ(Ⅰテモ2:5、Ⅰヨハ2:1)、世の人がイエスを通して神と和解し(ロマ5:10)、私たちを神の御前に導き(Ⅰペテ3:18)、神の子と成らせる必要がある(マラ3:18)。
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答:「イエス」はギリシャ語である。ヘブライ語では「ヨシュア」、その意味は「主は救い主である」。だから、この名は神の御名であり(イザ9:6)、彼のほかに、私たちを救いうる名は与えられていない(使徒4:12)。「キリスト」もギリシャ語で、ヘブライ語では「メシア」、その意味は「油を注がれる者」である。古きヘブライの王、預言者、祭司は立てられるときに、頭に油を注ぐ儀式を行っていたからである。キリストは神に立てられた者であり、王の王、主の主である(黙19:16、ヨハ18:37)。
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答:乙女マリヤが聖霊によって身ごもった(マタ1:18,25、ルカ1:34~35、4:4)。 このことは主が誕生される700 余年前に、預言者イザヤが聖霊の感動を受け、次のように預言した:「見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる」。即ち「神が私たちと共におられる」という意味である(イザ7:14、9:6)。
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答:イエスが誕生された年、史学者の推算により、ローマ建国後750~754 年の間、即ち中国の漢の哀帝建平の時代である。中国のいわゆる「西暦」は今世界で通用される紀元であり、イエスが誕生された年から計算される。私たちは「主暦」と呼び、主が誕生された年を始めとする。
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答:聖書にはイエスが何月何日に誕生されたという記載はなく、また歴史上も考証できない。1 月6 日、3 月28 日、5 月20 日、11 月17 日などの説もあるが、これは人為によって推測されたものであって、全く根拠のないものである。
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答:これも偽りの誕生日であり、カトリック教が残した異教の風習である。12 月25 日は古代の太陽教の祭りの一つであり、異教徒はこの日に冬至を祝った。冬至は太陽の力が増大する初めの日である。この日から夜が段々と短くなり、日が長くなる。彼らは冬至を祝い、特別な祭典を行い、太陽崇拝の敬虔さを表した。この異教の風習は当時のローマでは盛んであった。カトリック教はコンスタンティヌス皇帝の主張する異教風習「キリスト化」の政策をとり、紀元353 年頃からリベリウス教皇によって初めて12月25 日にキリストの誕生を祝った。彼らはイエスが人類の精神的な太陽であり、太陽教が太陽の誕生を祝うと同じ意義を持つと考えて、この日にイエスの誕生を祝い、今に至る。
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答:聖書にイエスの誕生日を記載しなかったのは、人に彼の誕生日を祝うことを許されていないためである。というのは、イエスは初めの言葉であり、言葉は神である。彼が言われる、「アブラハムの生まれる前からわたしは、いるのである」(ヨハ8:58)。しかも、「主が昔そのわざをなし始められるとき、そのわざの初めとして、わたしを造られた」(箴8:22)。イエスが人としてこの世に生まれたのは、神が肉において現れ(Ⅰテモ3:16)、世の人のうちに宿った(箴8:31、ヨハ1:14)。だから、日にちを決め、彼の肉体誕生の初めとする必要がない。彼は始めもなければ終わりもない神だからである
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答:ユダのベツレヘムと言う町に生まれ(ルカ2:4)、その場所はダビデ王の家族の所在地である。ヨセフとマリヤが皇帝の人口調査勅令によってナザレから自分の町に帰って行った時にイエスは誕生した。その後両親と一緒にガリラヤのナザレに戻り、そこで成長した(マタ2:23)。ナザレは小さな渓谷の町で、谷の全長は約1500 メートル、幅は約500 メートルあり、町は谷の南東の丘に建てられた。三方面の山は谷より165メートル以上も高い。南はエフライム平野で、東はテベリヤ(ガリラヤ海)である。谷には森があり、花や果樹、香柏の木が村を囲む。だから、この地方の風景は四季に渡って美しい。
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答:その時のユダヤ全地はローマ帝国に征服され、統治されていた。しかし、ローマ帝国は従属国に対して、寛大な政策を取り、その中の一部には自主権まで与え、その風俗と宗教信仰をそのままにした。ローマは軍隊の駐在とローマ皇帝への納税の義務(ルカ20:25)を課しただけであった。イエスの時代はローマに保護されたユダヤの国であり、紀元前37 年、「ヘロデ王国」と「ユダヤ議会」を設立し、教務を審議したり、民政を議論する特権は与えられたが、人を死刑に処する時にはローマ帝国が派遣する総督に執行してもらう必要があった。(マタ27:1~2)。だから、ユダヤは名だけの国であった。
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答:ローマは紀元前2 世紀に興きた国である。ギリシャ、エジプト、シリヤ、ピニケ等古代の文明国家も征服された。その時のローマ皇帝アウグストは領土をヨーロッパ、アジア、アフリカに広げた。東はユフラテ川、南はアフリカとアラブ砂漠、西は大西洋、北はゲルマンを境にし、計算によれば縦約4,500 キロメートル、横約3,000 キロメートル、人口約一億二千万人、いわばローマ帝国史における空前絶後の全盛期であった。紀元前66 年前後に、近隣の21 カ国をも併合した。ローマの武力による征服と政治の働きによって、各国で文化知識を自由に交流する機会が与えられた。例えば、ギリシャは優越的文化を持っていたため、ギリシャ語がシリヤ、マケドニヤ地方で提唱され、その後地中海の各国もギリシャ語を通商用語に用いた。だから、新約聖書もギリシャ語で書かれた。当時、ギリシャ文化は高い社会的地位を持っていた。だから、パウロは言った、「ユダヤ人はしるしを請い、ギリシャ人は知恵を求める。しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える」(Ⅰコリ1:22~23)、「キリストは神の力、神の知恵たるものである」(Ⅰコリ1:24)。
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答:ユダヤはローマに統治され、戦乱を経てから、国は大きく衰えた。その時、イスラエルの復興を熱望し(使徒1:6)、革命を起こした愛国者や熱心な宗教人も少なくなかった。しかし、異邦の文化思想を受け入れ、自分たちの宗教と調和させようとする人もいた。思想の分岐と党派の対立によって、混乱、虚偽、詐欺の社会環境がもたらされた。だから、イエスはこの情景を見て、「人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか」(ルカ18:8)と嘆かれた。また、当時の世代を邪悪な、強情的な、仁義ないものだと度々指摘された。祭司とレビ人が、強盗に襲われ半殺しにされた旅人を見ても、全く同情しなかったたとえをもって(ルカ10:31~32)、当時の人たちの冷酷な心を「わたしたちが笛を吹いたのに、あなたたちは踊ってくれなかった。弔いの歌を歌ったのに、胸を打ってくれなかった」(マタ11:17)とその深刻さを説明された。
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答:
1.パリサイ党(正統派):宗教上、彼らは正統派だと自認し、律法学者などの上流階級、知識人が多い(ルカ11:52)。この党派の人たちはイエスがこの世におられた時は一番勢力のあった団体である。彼らは旧約時代の教義を受け、モーセの律法を厳しく守り、外見を重んじ、自義、高ぶり、偽善、言行不一致、狡猾であった。だから、よくイエスに責められた(マタ23 章)。
2.サドカイ党(守旧派):当時の祭司が率いる組織である(使徒5:17)。彼らの主張の殆どはパリサイ党に反して、モーセの五書と律法の書のみを信じる。魂の永存、死人の復活、天使と悪魔の存在、将来の報いを信じない(マル12:18、使徒23:8)。この党派は当時、イエスに反する立場において、パリサイ党と一致し、しかも、イエスを迫害し、罪に定めたことにおいて、パリサイ党よりも凶悪であった。
3.ヘロデ党(保王派):一政党である。ユダヤがローマの隷属国になった時、ヘロデが王に立てられた。ヘロデは異邦のイドマヤ人で、ユダヤに帰属し、割礼を受けた。だから、ヘロデはユダヤ人の名義も持っている。一般的に政治上の自由自立を目的に、ヘロデを擁護し、自分たちの勢力を増加させようとするユダヤ人が「ヘロデ党」をつくった(マタ22:16)。イエス時代のヘロデ・アンテパトフンがガリラヤの王に立てられた(ルカ23:6~7)。
4.熱心党(過激派):彼らはモーセの律法を固く信じ、民族と宗教信仰でユダヤ人の革命意識を喚起し、祖国を復興しようとした。ユダヤ人は古くから神の選民であり、神の統治にのみ従い、武力をも惜しまず、ローマ人に抵抗すると主張した。イエスの十二弟子の中にも、熱心党のシモン(マタ10:4)がいた。一説によると、紀元66~70 年、ユダヤを最後の亡国に追い込んだ大戦乱はこの党派の運動によったものである。 -
答:イエスは弟子たちに言われた、「パリサイ人とサドカイ人とのパン種を、よくよく警戒せよ」(マタ16:6)。また言われた、「ヘロデのパン種とを、よくよく警戒せよ」(マル8:15)。よって、イエスは以上三つの党派と妥協せず、熱心党の主張にも賛成しない。
イエスを王として革命を起こし、イスラエル国を復興させようと擁護する人たちもいたが、イエスは彼らから退かれた(ヨハ6:15)。イエスは言われた、「わたしの国はこの世のものではない。もしわたしの国がこの世のものであれば、わたしに従っている者たちは、わたしをユダヤ人に渡さないように戦ったであろう。しかし事実、わたしの国はこの世のものではない」(ヨハ18:36)。即ち、主イエスは天国の王であり、彼はこのために生まれ、このためにこの世に来られた。その崇高なる任務は全世界の罪人を神の永遠の天国に救い入れてくださる事である(Ⅱテモ4:18)。 -
答:イエスは三十歳頃に伝道を始められた(ルカ3:23)。ヨハネと呼ばれる預言者はイエスより先に神に遣わされ、悔い改めのバプテスマを施し、イエスの伝道のために道を切り開き、自分より後に来られるキリストが自分より力のあることを民たちに示した(マタ3:1,11)。また、「彼は必ず栄え、わたしは衰える」と言った(ヨハ3:30)。
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答:イエスはヨルダン川でヨハネによるバプテスマを受けたが、悔い改めるためではない。
なぜならイエスには罪がないからである(Ⅰヨハ3:5、Ⅰペテ2:22、Ⅱコリ5:21)。
すべての正しいことを成就させ(マタ3:13,15)、また、模範を示され、罪人を悔い改めさせ、悪から立ち返らせるためである(使徒3:26)。 -
答:バプテスマを受け、水から上がると、天が開け、神の御霊がはとのようにイエスの上に下り、また天から声があって言った:「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」(マタ3:16~17)。
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答:バプテスマのヨハネが証をして言った:「わたしは、御霊がはとのように天から下って、彼の上にとどまるのを見た」。「わたしはそれを見たので、このかたこそ神の子であると、あかしをしたのである」(ヨハ1:32、34)。ヨハネがまた言った:「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」(ヨハ1:29)。
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答:イエスがバプテスマを受けてから、御霊によって荒野に導かれ、四十日四十夜断食をし、悪魔に試みられ、しかも悪魔にうち勝った(マタ4:1~10)。だから、聖書はこう言われる:「罪を犯さなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試練に会われたのである」(ヘブ4:15)。
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答:イエスが言われた:「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」(マル1:15)、また言われた:「主の御霊がわたしに宿っている。貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために、わたしを聖別してくださったからである。主はわたしをつかわして、囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知らせ、打ちひしがれている者に自由を得させ、主のめぐみの年を告げ知らせるのである」(ルカ4:18~19)。これはイエスの口から語られた恵みの言葉であり、世の人が自分を認識し、信じて頼るための自己紹介でもある。
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答:福音は良い知らせであり、このメッセージは全人類と関わっている。人がもしこの福音を信じて従うならば、必ず救われる。だから「救いの福音」(エペ1:13)とも呼ばれる。すべての信じる者はこの福音のゆえに救われる(Ⅰコリ15:1~2)。主イエスが伝道を始めた時から「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」と言われた。人が神の国に入るには、まず「悔い改めて」から「福音を信じる」べきである。
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答:神の福音とは世の人に:神のひとり子(イエス)が世の人々の救い主として遣わされた事を伝える。その救いは五つのことにおいて成就され、この五つの事は福音の総括であり、源である。しかも、この五つのことすべては私たちの「ため」になされたのである。私たちはこのように宣べ伝え、信じるべきである。すなわち:
1.キリストは私たちのために誕生された:「あなたがたのために救い主がお生まれに
なった。このかたこそ主なるキリストである」(ルカ2:11)。
2.キリストは私たちのために死なれた:「わたしたちの罪のために死に、そして葬ら
れた」(Ⅰコリ15:3~4、ロマ5:8)。
3.キリストは私たちのために復活された:「わたしたちが義とされるために、よみが
えらされたのである」(ロマ4:25)。
4.キリストは私たちのために昇天された:「あなたがたのために、場所を用意しに行く」(ヨハ14:2~3)。
5.キリストは私たちのために再臨される:「彼を待ち望んでいる人々に、罪を負うた
めではなしに二度目に現れて、救を与えられるのである」(ヘブ9:28)。
以上の5 点はクリスチャンの基本信仰であり、救いの福音の総括である。 -
答:イエスは十二人の使徒を立てた。即ち:ペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネ、ピリポ、バルトロマイ、トマス、マタイ、タダイ、ヤコブ、シモン、ユダである(マタ10:2~4)。また、別に72 名の弟子を選び、行こうとしておられたすべての町や村に、二人ずつ先に遣わし、人々の病をいやし、サタンを追い出し、天国が近づいたことを宣べ伝えさせた(ルカ10:1)。
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答:イエスは世の人々に真理を告げたばかりでなく(ヨハ8:45)、命をも賜り(ヨハ10:10)、また、私たちのために新しい生ける道を開いてくださった(ヘブ10:20)。ゆえに、イエスが言われた:「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」(ヨハ14:6)。だから、主イエスは説教者だけでなく、自ら身を捧げて、万人のあがないとされた方でもある(Ⅰテモ2:6)、これはイエスがこの世においてなされた偉大なる御業である。もしイエスが私たちのために身を捧げなければ、私たちは決して救われることがない。
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答:その心は柔和、謙虚、豊かな憐れみを持ち、至る所において善を行われた。主が言われる:「わたしに来る者は決して拒みはしない」(ヨハ6:37)。「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」(マタ11:28)。特に失われた罪人に対して、尋ね出して救うのである(ルカ19:10)。
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答:主イエスがこの世に来られ人類に賜った恵みと祝福は、人の体と魂の両方面が必要とするものである。しかし、体は一時のものに過ぎず、魂は永遠のものである。だから、後者は前者より遥かに重要であり、主イエスがこの世におられた時、人々の病をいやし、悪霊を追い出し、死人を復活させたのは、一部の人の体になされたわざであり、これにより人々は彼を信じ、頼った。この最後の目標は一人一人の魂の大問題を解決することにある。だから、彼が人々に行われた善は霊と肉とに関わるものであり、世のすべての人は彼を信じると次の恵みが得られる:
1.平安を得る:(ルカ1:79、マル5:34、ルカ7:48,50、ヨハ14:27、16:33、ピリ4:7、コロ3:15)。
2.自由を得る:(ヨハ8:36、ルカ13:16、ロマ8:1~2、ガラ5:1、Ⅱコリ3:17、ガラ5:13)。
3.光を得る:(ヨハ8:12、9:5、12:46、マタ9:29~30、ヨハ9:11、エペ1:18、5:13~14、使徒26:18)。
4.命を得る:(ヨハ10:10,28、11:25~26、ルカ8:53~55、コロ3:4、ヨハ5:40、20:31、エペ2:1,5)。
5.飽き足りる:(ヨハ6:35、マタ5:6、14:20、ヨハ6:27~28、Ⅰコリ10:3~4)。
6.喜びを得る:(ルカ1:47、ヨハ3:29、16:22,24、17:13、20:20、使徒16:34、ピリ4:4)。
7.守られる:(マタ23:37、ヨハ17:12,15、6:39、Ⅱテサ3:3、Ⅰテサ5:23、
Ⅰペテ1:5)。 -
答:イエスの伝道期間はただ三年あまりである。裏切り者ユダに売られ、不信仰の悪人によって十字架につけられ(ヨハ19:17~18)、あがないの子羊となった。十字架につけられる前に、むち打たれ、いばらの冠をかぶらされて嘲弄され、顔につばを吐かれ、葦の棒で頭をたたかれた。こんなにも苦しみを受けて死なれたのは、彼に抵抗する力がないのではなく(マタ26:53)、みずから耐え忍んだからである。だから、彼は空前絶後の大勝利を収められたのである(コロ2:15)。
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答:神の御旨を成就するためである。しかも彼を砕くことは主の御旨であり、主は彼を悩まされた。彼が自分を、とがの供え物となした(イザ53:10)。このように、神が世の人々を愛し、世の人々の罪のためにあがないの供え物となった偉大なる救いを現された(ヨハ18:11、Ⅰヨハ4:10)。だから、彼は甘んじて多くの人たちのあがないとして、ご自分の命を与えられた(マル10:45)。また、ご自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架の苦しみを耐え忍んだ(ヘブ12:2)。
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答:主イエスは全世界の罪のために死なれた(Ⅰヨハ2:2)、わたしたちの罪過のために死に渡され(ロマ4:25)、十字架にかかって、私たちの罪をご自分の身に負われ(Ⅰペテ2:24)、呪われた(ガラ3:13~14)。イザヤ書ではっきりとこう預言されている、「まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ」(イザ53:4~5)。だから、イエスの死は世のひとりひとりと密接な関係にある。私たちは心からイエスを唯一の救い主として受け入れるべきである。
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答:神はかつてエバを誘惑した蛇(サタンの道具)に言われた、「女のすえはおまえのかしらを砕き、おまえは女のすえのかかとを砕くであろう」(創3:15)。これはイエスの死を預言するものである。表面上は人の手に渡され、やみに支配権をゆだねたが(ルカ22:53)、しかし実際はサタンに一番悲惨な打撃を与えた。「死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放つためである」(ヘブ2:14~15)。だから、イエスの死は神に対しては従順であり、人に対しては救いであり、サタンに対しては勝利である。
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答:血を流すことにある。「血を流すことなしには、罪のゆるしはあり得ない」(ヘブ9:22)。「わたしたちを愛し、その血によってわたしたちを罪から解放した」(黙1:5)。わたしたちも彼の血によって神の近い者となり(エペ2:13)、彼の血によって義と認められ(ロマ5:9)、彼の血によってはばかることなく聖所に入ることができ(ヘブ10:19)、また、彼の血によってサタンに打ち勝った(黙12:11)。
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答:イエスは十字架の上で最後の言葉として「すべてが終わった」と語り、首をたれて息をひきとられた。そして、ひとりの兵卒がやりでそのわきを突き刺すと、すぐ血と水が流れ出た(ヨハ19:30、34)。
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答:墓に葬られ、三日後に死から復活し、墓を離れた(マタ28:6)。これによりご自分が弟子たちに語られたとおり、三日後に復活する預言を成就された(マタ16:21、17:22、マル8:31、ルカ9:22、18:33)。
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答:霊のからだであり(Ⅰコリ15:44)、物質によってその行動を制限されることはない-「戸はみな閉ざされていたが、イエスが入ってこられ、中に立った」(ヨハ20:19,26)、また「すると、御姿が見えなくなった」(ルカ24:31)。しかし、肉や骨がないのではなく、手で触ることができ、物も食べ、普通に話す(ルカ24:39、43)。だから、イエスの復活は「精神の不死」ではなく、確かにそのからだが死から復活し、「栄光のからだ」に変えられたのである(使徒2:31、ピリ3:21)。
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答:神はイエスを復活させたのである(使徒2:32、Ⅰコリ6:14)。なぜならイエスはいのちの君であるからである(使徒3:15)。イエスは言われた、「わたしには、命を捨てる力があり、またそれを受ける力もある」(ヨハ10:18)。また言われた、「わたしはよみがえりであり、命である」(ヨハ11:25)。だから、死に支配されることはない(使徒2:24)。返って、最後に彼の復活によって死を滅ぼし(イザ25:8、Ⅰコリ15:26)、命と不死とを明らかに示されたのである(Ⅱテモ1:10)。
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答:イエスの復活はキリスト教の基本福音の一つであり、神の救う方法の最も重要な鍵であり、信徒の救いに大きく関係するため、私たちは聖書の御言葉を信じ、この信仰を堅く守るべきである(Ⅰコリ15:1~2)。もしイエスが復活しなかったとすれば、イエスを信じる信仰は空虚なものとなり、いまもなお罪の中にいることになる。キリストにあって死んだ者は滅んでしまったのであって、来世の望みもないとすれば、すべての人の中で最も哀れむべき存在となるのではないか(Ⅰコリ15:17、19)。復活は霊的に限らず、世の末の日に、からだも死から復活するのである(ヨハ6:40)。
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答:イエスの復活によってわたしたちを新たに生まれさせて生ける望みを抱かせ(Ⅰペテ1:3)、罪で死んだ「魂」をキリストと共に復活させ、義と認められ(コロ2:12~13、ロマ4:25、8:10)、死ぬべき「からだ」を世の末の日に生かしてあがなわれるである(ロマ8:11、23、ヨハ6:39~40)。キリストは復活の初穂であり、主イエスを復活させたかたが、わたしたちをもイエスと共に復活させ(Ⅱコリ4:14)、共に天上で座につかせてくださる(エペ2:6)。
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答:主イエスは復活されてから、多くの証拠を持ってご自分を使徒と多くの人たちに現され(Ⅰコリ15:4~8)、聖書を解釈し、神の国について論じられた(ルカ24:27、45)。地上で40 日間を過ごした後、天に上げられ(使徒1:3、9)、上なる天にはいり神の右に座された(ヘブ9:24、ロマ8:34)。彼はいつも生きていて、彼によって神に来る人々を、いつも救うことができ、私たちのためにとりなして下さる(ヘブ7:24~25)。彼はもろもろの天を通って行かれ、私たちの大祭司となられた(ヘブ4:14)。
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答:イエスは必ず再臨される。彼が言われた:「見よ、わたしは、すぐに来る」(黙22:7、12、20)。彼が雲に乗って来られる時、すべての人の目は彼を仰ぎ見るであろう(黙1:7)。「彼を待ち望んでいる人々に、罪を負うためではなしに二度目に現れて、救を与えられるのである」(ヘブ9:28)。これはクリスチャンが心から待ち望む最も大切なことである(Ⅰペテ1:13)。